シュメール人、と検索すれば正に玉石混合というかインターネットらしい記事の数々を見る事が可能である。ある程度ネットサーフィンをしてみたところ、それなりに正確な情報も確認できたが前知識無しに日本語の情報のみでシュメール人について調べたとしても正誤の区別はつかないままであろう。
世間ではシュメール人の実績があることないこと誇張されて描かれたせいで、一種のオカルトのシンボルになってしまっている節がある。彼らが宇宙人と交信していたのだとか、宇宙人そのものだったのだとかいう話はテレビですら散見される。もちろんそんな訳はないのだが、今ではその説というか、与太話が余りにも知られたせいで時折アトランティス大陸のような伝説上の存在と同列に語られ、シュメール人の存在自体をオカルト染みた存在のように思われることすらあるように感じられる。一応断言しておくと彼らの実在は疑う余地がない。
このページでは実在した彼らの事を記した後、現代のファンタジー観というかオカルト観に則ってシュメール人にまつわる与太話を掲載していければと思う。
尚、より正確に当時の発音で示すとシュメールではなくシュメル、と表記する方がアッカド語の原音に近いものであるがこの情報を伝えるためにはそもそも検索される必要があると考え、ここでは一般に知られている「シュメール」という表記を採用させていただいている。
なぜこのように二通りの表記があるかというと、話は第二次世界大戦まで遡る。当時の日本では「高天原はバビロニアにあった」、天皇の呼称の一つである「すめらのみこと」とは「シュメルのみこと」が訛ったものである、といった俗説が横行した。そこで日本のシュメル学の先達であった中原与茂九朗先生(京都大学名誉教授)がその俗説への対抗策として「シュメール」と表記されたのだ。古代オリエント学にも精通している歴史学者でもあった三笠宮崇仁親王は中原から直接この話を聞いたという(小林 vii)。それにしてもシュメール人はとことんデマと縁のある人々である。
尚、シュメルという地名はアッカド語であり、シュメル語ではシュメルの地のことをキエンギといったが単語の意味までは分かっていない。
目次
シュメール人の発見
シュメール人の存在が主張されたのは1869年で、当時は聖書にないという理由などで存在を認めない学者もいたものの(宗教的な理由も少なからずあるが、歴史書としての聖書の役割がそれなりに強かった)、今ではその実在を疑う学者はいない。
しかし、調べてみれば当時シュメール人を信じなかった人々の主張はむしろ筋の通ったものである。なにせ、メソポタミアの歴史の中でもシュメール人が覇を唱えていたのは最序盤であり、歴史を重んじたギリシャ人やローマ人の文献にすらほとんどシュメール人の記述はなかったのだ。シュメール人の存在を間違いなく認知しているメソポタミアの学者が数人、大洪水神話などをギリシャに伝えているのだから、シュメール人の存在が知れ渡っていてもおかしくはないのだが、ともかくシュメール人の資料はその実在を示すには様々な面で欠如していた。
彼らが発見される切っ掛けになったのは、19世紀の楔形文字解読の過程であった。当時は発掘の最初期に書板の多くがアッシリアで見つかったことからも楔形文字の発明はアッシリアによるものだと考えられていた。実際にはアッシリアがバビロニアより優勢に立ったのはメソポタミアの歴史でも後の方なのだが、アッシュルバニパル王の図書館の圧倒的な蔵書量がそれを感じさせなかったのだろうか。
結局シュメール人存在の確定は1877年のフランスの発掘隊によるテロ―遺跡(シュメール人の都市国家ラガシュの一市区)発見まで待たれることとなった。
では逆にシュメール人の存在を発見前に主張していた者たちは何を根拠としていたのか。根拠となったのは音韻論である。具体的な音韻論の話は本筋から外れるので省略させていただくが、楔形文字はアッシリア帝国とバビロニア王国で使われていたアッカド語という言語を表現するには全く適していない文字であったため、楔形文字を生み出した第三の民族がいるはずだという主張が幾人かの優れた学者によってなされた。シュメール人の存在はその証拠が見つかっていない時代から言語学の観点より示唆されていたのである。私自身音韻論に精通しているわけではないのだが、詳しい解説を聞くとそもそもアッカド語を表現するのに語順が異なっているなど明らかに違う言語が存在していたことが分かる。
他にも当時の記述などからシュメール人が支配していた時期が確定している代表的な都市国家にはニップル、ウル、ウルクなどがあるが、全ての都市からきちんと彼らの遺構が発掘されたわけではない。
民族的アイデンティティ
少々お勉強タイムである。小難しい話をするので飛ばしていただいても構わない。民族的アイデンティティとは、何をもって民族を特定するかというものである。ここでは何をもってシュメール人とするのかという話をしたい。
突然であるが、私は日本人である。個人的には日本で生まれたから日本人であると思っているのだが、思想の強い人の場合血縁、あるいは精神性を重視するということもあるだろう。
しかし、大多数の人にとってはそんなことはどうでもいいことであると思う。今現在いずれの国家にも属していないという人はそう多くなく我々は特別な思想があるわけでもない場合、国家で人種を判別できる。人種を失うことなど考える必要がないのである。
しかしメソポタミアの場合少々勝手は異なる。メソポタミアの都市国家群では人種を定めるものは所属国家に限らない。メソポタミアでは頻繁に支配民族が入れ替わる事もあり、一つの国家でも人種によって立ち位置が異なった。例えばシュメール人の権力の強い国家では同じ日に産まれたとしてもシュメール人の親から産まれた子は他の人種の親から産まれた子より偉かったり、血縁に由来することが多かった。
そして、血筋とは厳しい決まりを課さないと到底守れないものである。シュメール人の最後は他人種との混血による民族的アイデンティティの喪失であった。
歴史の表舞台から姿を消したシュメール人はどこへ行ったのか!?みたいな話は今でも散見され、各地で楔形文字が発掘されるたびに逃れてきたシュメール人はここで逃れてきたのだからこの国の人々はシュメール人の子孫である!といった主張がなされるが、おそらく自覚はなくともイラク周辺はおろか全世界にシュメール人の血を一部引く方は多数いらっしゃると思われる。
人種的ルーツ
さて、シュメール人とは『シュメール人』という名称の人々の血縁を引いているグループを指す呼称であると分かったところであるが、ではその血脈のルーツである最初のシュメール人について分かっている事を記していきたいと思う。
シュメール人はメソポタミア文明の草創期に現れた謎の民族である。この場合の謎というの〇〇説と△△説で揉めてるとかではなく、本当に一切が謎だ。未だに人種的ルーツや文化的ルーツから、言語系統的なルーツに至るまで全ては謎であり、今後も確定することはないだろうと言われている。
我々は謎の民族と聞くとすぐにロマンを感じすわ宇宙人か!?と構えてしまうが、そういうわけではもちろんなく、この謎にはメソポタミア文明の成り立ちが少し関わっている。開けた大地であったメソポタミアには東西南北から多様な民族が集まっていた。そのうちの誰かが灌漑などのビッグプロジェクトを考え出し、リーダーが必要となり、都市国家の形成に至った。という筋書きがおおよそ最初の都市国家形成の際に起こった出来事と相違ないだろうと思われている。
しかし肝心なそのとき集まった部族の数も、その見分け方も私達には分からないのである。彼らこそがメソポタミア文化の立役者であることは間違いないのだが、なんせ文字ができる以前の話なので、どの出土品を見てもどの地方出身の人物が作ったものなど知りようがないのだ。今後も分かることはないだろう。私たちの目線では文字の発明が成されるとともにシュメール人が歴史に姿を現すこととなる。
と、いうことでこの人種的ルーツの項では数多の研究者の「分かるはずのない事を分からないなりに調べた結果」を書き連ねていく。もちろん読んで頂ければわかることだがいずれも大変価値のある研究である。
まずいつ頃からメソポタミアにいたのか、シュメール人が活躍した時代は前4000年後半から前3000年紀と考えられており、これはメソポタミアで文明が芽生えてからかなり初期の頃である。シュメール人がかなり早い時代からしっかり定住していた事は間違いないのだが、元からいたという説は多くの根拠から否定されている。
となればいつ、どこから来たのかという点に焦点が絞られる。前提としてシュメール人が文字を発明したのがメソポタミアに定住してからであったことは間違いないため(文字の形成過程までしっかりと発掘されている)、どこかから楔形文字の資料が発掘されてシュメール人のルーツが明らかになるという事も今後起こり得ない。
他の民族と同じように山か海を通じて来たのであろうが、具体的に知る術は何度も言うように存在しない。一応今ある手がかりを挙げると、ジャン・ボテロは『最古の宗教〈古代メソポタミア〉』にてメソポタミアの有名な伝説『七人の賢者』が、シュメールの正体を見極めるための一つの仮説を提供していると考えているようだ。彼によるとこの伝説に登場する海から来た存在がシュメール人だという。この物語では海から流れ着いた鯉の賢者、あるいは鯉の恰好をした人間の賢者七人がメソポタミアの人々に様々な事を教え、そこから文明が発展していく。
ジャン・ボテロはこの鯉はシュメール人を指しており、現実でもシュメール人は海岸近くに住み、そこから海岸沿いを通ってメソポタミア南部の沼地に住み着きそこから文明を発達させたという可能性を示した。
バビロンの儀式にはシュメール人のものが後世に受け継がれた場合も多いが、一部の儀式画に見られる人が魚に変装した図像はこの『七人の賢者』が元になっていると考えられる。鯉がなぜ信仰を集めたのかについての考察はこちらにある。もちろん海ではなく山国からやってきたという真逆の説もある。
他のアプローチでは外見がある。その場合手掛かりになるのはあの有名な目が大きい像だが、大きな目という最大の特徴を除けばむしろ東洋系のようにも思える。あの彫像の正確性は定かではないが、いくつかの像で確認される共通の特徴として、男女共に背が低く、丸顔で、男性はそれほど毛深くない点があり、確かに東洋系に見えなくもない。一応ネットにはオモシロ説として日本人のルーツがシュメール人説というものもある。人物を目を大きくして描くのは日本人と同じ匂いが感じられるかもしれない。
シュメール人の築いた歴史
まず日本でいうところの縄文時代にあたるウバイド文化期だが、それらの担い手もシュメール人だとする説がある。しかし、地名の命名法や身体的特徴がシュメール人では説明がつかない箇所が存在し、未知の先住民(ウバイド人)がいたのではないかと言われている。
次の時代であるウルク文化期に持ち込まれた円筒印象や、独特な形の煉瓦などをもってシュメール人が文明を築いたと考えるのが一般的だ。先ほど民族的アイデンティティの話をしたがウバイド人のそれはシュメール人のそれと違い「現代の我々が定めたもの」であるので、ウバイド人など存在せずシュメール人がウバイド文明の創造を担ったとする主張も間違いではない。というよりは分からないのだから、誰であろうと間違いだと指摘することは不可能である。
ウルク文化期なんて名前も知らないだろうし今後も見る事はないだろうが、人間が初めて都市で暮らしたとき我々との暮らしにどれだけ差があったのかはこのサイトでちらっと見ていくと楽しいかもしれない。今は全くそのような記事が用意しきれていないが。
そしてメソポタミアの最南部、バビロニア南部にウルクの都市ができてから、バビロニア全域に都市文明が広がるの時期を指してジェムデド・ナスル期(前3100年~前2900年)と呼ぶ。そうして各地にできた都市が争いを始めたのが初期王朝時代(前2900年~前2335年)である。ここら辺の時代がシュメール人によって歴史が動かされた時期であり、同時に最も彼らの謎が多い時期である。初期王朝時代はシュメール人同士の争いであったものの最終的にはアッカド人のサルゴンが覇者となったため、シュメール人の時代は初期王朝時代の終わりに一旦終わりを告げることとなる。その後の彼らは時に応じた時代の覇者に抗ってみたり政治面では中々力を持てない状況が続くこととなる。しかし依然として彼らの文化は多大な影響を持っており、学問・文化方面においては彼らの優位は変わらなかった。
まだ争っているのに初期「王朝」時代とはこれ如何にと思われるかもしれないが、当時は有力な都市国家には王と呼ばれる存在がいて、同時に何人もの王がメソポタミアに存在したことになっている。当時の現在イギリスのオックスフォード大学にある美術・考古学を専門にしたアシュモレアン博物館に「シュメル王朝表」という石碑が収められているが、その石碑には王朝が初期王朝時代含め都市国家から都市国家へと移っているように記されている。これは後の時代に、王権が神により授けられた後は戦争で勝った国が王権を引き継ぐという考えになったからだと思われる。
なかなか面白い価値観だが、実際の初期王朝ではいくつかの王権が併存していたと考えられている。ここに描かれた最後の王朝がイシンであるので、一般的な政治感覚で考えるのであれば、自身が神代の偉大な王達から王権を引き継いだ人物であるとしてイシンの王が自らに箔をつけたのだと思われるが、実際の所よく分かってはいない。彼らの戦争観もまた我々とは全く異なっているのだから。
https://ashmolean.web.ox.ac.uk/sumerian-king-list こちらはそのアシュモレアン博物館公式サイトへのリンクである。アシュモレアン博物館はオックスフォード大学の一部であり所蔵物の著作権は全て写真家にあるためこうして外部リンクを使用させていただいた。
ともかく初期王朝時代はアッカド人であるサルゴンの手によって終焉を迎える。しかしそのアッカド王朝も11世代に渡って約180年間続いたが、第五代であるシャル・カリ・シャリ王の治世にはグディ人という周辺異民族攻め込まれ、誰が王かわからない、実質的な無政府状態になっていたという。そうしてアッカド王朝が衰退の一途を辿るなかでシュメル人最後の王朝であるウル第三王朝(前2112年~前2004年)が始まる。ウル市に置かれた三番目の王朝という意味で、中央集権体制が確立などによってなかなか繁栄したものの、五代約100年間でシュメール人と共に歴史から姿を消した。姿を消したというのは先ほども述べたように、シュメール人だけが集団で移住したというわけではもちろんなく、他の民族と混じりあい、記述でもシュメール人だと殊更に記述されることがなくなったということである。
ウル第三王朝を興した人物であるウルナンム王(前2112年~前2095年)はシュメール人だと分かっている人物の中で最も有名な人物の一人だろう。
ウルナンム王は現状最古の法典である『ウルナンム法典』の発布(息子のシュルギ王(前2094-前2047)が発布した説あり)や、社会改革に大規模な公共建造物の建設など、シュメル人の知的才能を遺憾なく発揮している。ウルナンム法典はイスタンブル考古学博物館に寄贈されていたものをクレーマーが発見したもので、この博物館には今なお未解読の粘土板も多い(小林 160p)。
ウルナンム法典は実際の裁判で使用された形跡がないため、法典として扱うべきかという点には議論が残るが、条件節「もし~なら」帰結節「〇〇である」というセットで作られる「決疑法形式」(あるいは「解疑法形式」)はハンムラビ法典にも使用されているなど、後世の法にも影響を与えていることは明らかである。
しかしハンムラビ法典との明らかな違いとして、有名な「同害同復法」(あるいは「同害復讐法」)ではなく『ウルナンム法典』では罪に対しては秤量貨幣(銀)での賠償が義務付けられていたことが分かっている。しかし強盗、殺人に限っては死刑が採用されていた。
ちなみにハンムラビ法典を作ったハンムラビは遊牧民である北西セム語族のマルトゥ人(アモリ人)である。後述のシュメール人の都市に関する価値観の影響もあり、かつてのシュメール人は遊牧民である彼らを蔑視していたが結局ご自慢の都市を遊牧民に攻め落とされたことも王朝衰退の原因の一助であったりする。
そしてシュメール人という人種が消え、その後はメソポタミアの外から訪れた人々も含め多くの民族によって政権交代がなされていくこととなった。
ちなみにシュメール人は一度もメソポタミア統一を成していない。といっても、歴史全体を俯瞰しても彼の地が完全に統一されていた期間など僅かに過ぎないのだが。
シュメール人の思想
シュメール人の持つ思想がメソポタミアの知的活動の根源となっていると言っても過言ではないほど、彼らのメソポタミア文化への寄与は凄まじい。
シュメール人が歴史からその名を消した後、数多くの民族が代わる代わるメソポタミアを支配したが、どの時代においても高位の神官はシュメール語を学ぶ必要があり、神殿に大勢の神官が住まうシステムはシュメールが祖だったと思われる。しかし、いくつかの儀式において全裸で行うという風習は間もなく消えたようだ。
こうして後世に伝わるシュメール人の宗教的影響は、神殿などの公的なものに限らず個人の祈りにも通じている。メソポタミアの崇拝する神に対して畏れや願いや感謝を直接的に伝える独特の表現などはシュメールから伝わっているだろうと言われている。
神人同形観も行くとこまで行った感じもするが、シュメールの祈りにはかなり直接的に神をおだて、賛辞を贈る形式のものが存在する。
こうした賛辞や仰々しい「言葉による」アピールを人間の権力者と同じように神も欲していると考えた理由は分からないが、少なくとも我々が確認する限りシュメール人が初めであることは間違いない。これはメソポタミアのかなり後期まで残る文化となった。
しかし、反対にジャン・ボッテロはシュメール人によって形式が固まってしまい、メソポタミア文学から情熱が削がれたと指摘している。確かに公的な祭儀で使われる祈祷歌はメソポタミアの全史を通して異常なほど変わらない。もちろん多少の変化は見られるのだが何千年を経ても一部でも残っているというのはそれだけで異常である。
しかしこれはシュメール人が凄いというよりはメソポタミアの人々全てが伝統を重視した結果である。シュメール語は宗教に限らず文学的方面でも使用が続いた。
逆に失われたシュメール人の文化としては、男女平等観が挙げられる。メソポタミアの宗教観では地下の神も地上の神と同等に尊敬を集めたが、シュメール人の世界においては冥界のパンテオンの主は女神エレキシュガルだった。しかしアッカドの時代になると新たな神話で説明付けはなされたもののエレキシュガル神の位置は男性神であるネルガル神に取って代わられた。シュメール人の「男性中心主義的思考」はアッカド人に比べれば薄かったのだと思われる。
デマについて
現在調査中です。申し訳ございません。ご自身でYoutubeで検索をかけていただいた方が早いかもしれない。
実はトンデモ学説の説得力を高めるためだけに挙げられる謎の学者達の原文を手に入れたいと睨んでいるのだが、どうしたって原文を見つけることは難しくなっているようだ。その学説を読みましたという人だけ多くいるのだが。
あまり詳しく覚えていないが宇宙人が人類開拓のために生み出したクローンであるという説が有名らしい。
参考文献
小林登志子『シュメルー人類最古の文明』中央公論新社、2005
ボテロ・ジャン、松島英子訳『最古の宗教ー古代メソポタミア』(りぶらりあ選書)法政大学出版局、2001
前田徹『初期メソポタミア史の研究』早稲田大学出版部、2017
矢島文夫『メソポタミアの神話ー神々の友情と冒険』筑摩書房、1982