ニンフルサグ神

ニンフルサグ(nin-hur-sag)神はシュメル人に主に信仰されていた地母神である。彼女はイナンナ/イシュタル女神という綺羅星のような輝きを持つ神の影に埋もれて、私もメソポタミア神話研究を始めるまでその名を知らなかった神であるが、彼女は彼女で非常に重要な役割を果たしていた神であり、メソポタミアの偉大な神の一柱である。ここではそんな彼女の持つ独自の役割について語りたい。

彼女の名の意味はシュメル語で山域の女主人であり、その名の通り山を彼女の聖域とする歌や、彼女が山に登場する物語もあるが、基本的には山関係なく大地や母性など多くに関与している。

エンキ/エア神の配偶神として有名であり、シュメールの王に広く信仰されていた。シュメールの王達は彼女の事を「母」と呼ぶこともあった。

持っていた役割

地母神としての役割

何よりも重要なのが彼女この地母神としての役割である。専門家の方であっても、専門家には遠く及ばない私であっても、メソポタミアの偉大な神を並べて説明する際は
アン神 天神
エンリル神 主神
エンキ神 水神
イナンナ/イシュタル神 地母神
ウトゥ神 太陽神
ナンナ神 月神
ニンフルサグ神 地母神

と、表記せざるを得ない。これは至極妥当で、イナンナ/イシュタル女神の神話での振る舞いは世界中の地母神達の役割に真っ当に沿うものもあったし、ニンフルサグ女神は紛れもなく地母神である。

しかし、こう表記してしまえば、「あ、似たような神が偉大な神に二柱もいるんだな」と、興味が薄れより地位が高い地母神であるイナンナ/イシュタル女神が特別取り立てられるのは当然のことである。

しかし一つ、一つ超重要な違いがあった。それはイナンナ/イシュタル女神は処女神で子供がおらず、対してニンフルサグ女神は結婚した相手がおり、子供が沢山いたことである。

つまりイナンナ/イシュタル女神とニンフルサグ女神の間で、地母神の役割分担が起きていたのだ。最近は心理学的分析もすっかり定着しており、神話における母神の役割ははっきりしている(とされている)。その中でも子宮への誘惑的な、回帰などの要素はイナンナ/イシュタル女神が、その他の要素がニンフルサグ女神が担当していたように思える。

一応補足しておくとニンフルサグ女神以外にももちろん子供を持っていた女神はいたし、そういう意味では女神としての特異性ではイナンナ/イシュタル女神には劣っていたかもしれない。

しかし、彼女のアイデンティティともいえる母神としての役割は後になって、一部イナンナ/イシュタル女神に吸収される。その証拠に処女神でありながらイナンナ/イシュタル女神はサラ神という一人娘を持つことになった。

創造神としての役割

初期王朝時代のリストに記載され、その中の称号として「神々の母」や、「全ての子供の母」があった。

敢えて地母神と分けた理由は彼女が母胎として以外の力で生命を生み出す事ができると考えられていたからである。彼女はメソポタミアの主神級の男神が行う単身による神の創造も行うことができた。またそういった主神級の男神の持つ力である人間の滅亡の運命の決定権を彼女が振るうこともあった。

シュメールに残っている幾つかの大洪水の物語などでは、アン神、エンリル神、エンキ/エア神とともに人間を創造したとされている。もちろんメソポタミアの人間を創った神はエンキ/エア神がメジャーだが、ニンフルサグ女神にもそれをするだけの力があると思われていたということだろう。

反対に『シュメールとウルの破壊の嘆き』という詩では、都市の運命などを決定する役割を担っていたと考えられている。

野生動物の神としての役割

山岳地帯の神として、彼女は野生動物に特別な関心を持っていた。また、家畜の「母」でもある。旦那が家畜の神や野獣の神の関係者だったこともある。

ディルムンの支配者としての役割

メソポタミアには理想郷のような場所ディルムン(Dilmunite)が存在するという考えがあった。そこにはインザック神とメスキラク女神という神がいて治めていると思われたが、このインザック神とメスキラク女神がエンキ/エア神とニンフルサグ女神だとする説が生まれた。

これは誰でもよかったわけでなく、何らかの理由があったと思われるが詳細は不明である。誰でもよかったというわけではないが、アダド神とマルドゥク神など多彩な神がディルムンの支配者と考えられたこともあった。

同一視された神々

彼女はやたらと同一視された神が多い。というか地母神はすぐさま彼女に結び付けられる。理由は本当に教えてほしい。まとめるのがとても大変である。

まずディンギルマフ(Dingir-mah)神、ニンマフ(Nin-mah)神、ニントゥ(Nin-tu)神、アルル(Aruru)神,ベリート・イリ―(Belet-ili)神リシン(Lisin)神などの母なる女神はしばしば彼女と同一視される。

崇拝された場所

シャラークム(Šarrākum)の都市神ではあるが、アダブ、ラガシュの一部分、あのウバイド文化期のウバイドでも信仰されていた。ウバイド遺跡から彼女の神殿が出土しており、そこには人々が家畜である牛を育てる様が書かれていた。

紀元前2600年頃、イラク南部のウバイドにあるニンフルサグ神殿にあった雄牛の銅像の画像。

ケシュのベリート・イリ―と呼ばれることもあった。ニンフルサグ女神の方が格上のはずなのだが。

ラガシュ、ギルス、ウンマ、ウル、マリ、アダブ、スーサにも祠や神殿があり、供物が授けられていた。シャラークムは、初期王朝時代から古バビロニア時代まで女神の崇拝の中心地であった。ケシュ(Keši)という名の聖域がありそこにある女神の神殿はE-Keš「Kešの家」と呼ばれていた。ちなみにケシュとキシュはまた別の都市である。

また、アダブにも女神信仰の中心地があり、そこではE-maḫ「高尚(Lofty)な家」として崇拝されていた。ギルスとバビロンにある彼女の神殿にも同じ名前が付けられている。また、ウル近郊のテル・アルウバイドも女神の信仰の中心地であり、有名な「楕円形の神殿」がありました。多くの王たちが、ニンḫルサグのために神殿や祠を建てたと宣言した。マリのタブレットでは、沐浴用の油を受け取る神々の中にNin-ḫursagが含まれている。

神話上の活躍

『エンキ神とニンフルサグ神』という神話においては浮気したエンキ/エア神に怒るニンフルサグ女神が見られる、と手持ちの図鑑では紹介されているが、エンキ/エア神のやっていることはもうちょっとえげつない。

エンキ神とニンフルサグ神の間にニンニシグ神という女神が産まれる。しかしエンキ神は自身の子供であるニンニシグ神と交わってしまう。その二人の間から更にニンクラ神という女児が産まれた。

しかし、それだけに留まらずエンキ神はニンクラ神とも近親相姦を行い、機織りの神であるウットゥ神が生まれた。ちなみにメソポタミアでも子や孫と交わるのは当然タブーである。流石にニンフルサグ女神は対策を講じ、ウットゥ神に注意を促したが、エンキ神は突破、ウットゥ神も孕んでしまう。

しかし怒ったニンフルサグ女神は連鎖を断ち切ろうとしたのか、ウットゥ神の胎内から精子を抜き取り大地に埋めてしまう。そしてそこから芽吹いた植物をエンキ神に食べさせた。

これは古代の神話によくみられる傾向だが自身の精子を飲んだ男性は病になるか、一人前としてふさわしくないと誹りを受けてしまう。エンキ神においては病に陥るパターンだった。しかし、エンキ神を許したニンフルサグ神はエンキ神の病を治し、その時に傷んだ箇所から神を生み出した。頭からは植物神であるアブ神が生まれた。

この病から生まれた神達は、つまり人々に降りかかる病そのものであり、エンキ神の過ちを後世に残す意味もあったそうだ。というわけでこの神話内ではエンキ/エア神の浮気によって世界に初めて病気が生まれたことになっている。

エンキ/エア神は本来知恵の神であるはずで、このような話は少々彼にそぐわない。しかし、幾つかの考察がなされており、エンキ/エア神が過去男神の役割を一手に担っておりハーレムを築いていたことの証左だとする説などもある。

しかし、物語自体は単体では魅力に欠けるというか、流行る理由がよく分からないし何らかの心理に訴える要素があったのだろう。ただ凄く浅い、表面的なことを言わせてもらえばニンフルサグ女神に三大神であるエンキ/エア神の生死を左右するほどの力があったことを示しているのは確かだろう。

『ギルガメシュの死』の最後には、主人公が野生動物の神であるシャッカン(Šakkan)/スムカン(Sumuqan)と習合したニンフルサグ女神に供物を捧げている。

またLugal-e ud me-lám-bi nir-ğálという詩では戦闘神であるニヌルタ神がアサッグ(Asag)という敵とその石の軍勢を退治し、その石で山を築き、自身の母であるニンマフ(Ninmah)神をニンフルサグという神に名を変更したという神話が存在した。そのときに征された山地の名前がHursagであったということらしい。

この神話の意味は分からない。ニヌルタ神の親にニンフルサグ女神の権力を付け加えたいのか、又はニンフルサグ女神の名が山域に限られていることに対して何か解決策を講じたのか。しかし何はともあれこの誼で、女神ニンマフ神のアダブにあるE-mahにもニンフルサグ女神は祀られていた。

他の神々との関係

ニンフルサグ女神は偉大な神群の中では唯一「母」の役割を持っていたためエンキ/エア神の妻としての役割の他に、ニンリル神の代わりにエンリル神の妻として描かれることもあった。

エンリル神の妻の場合は、彼のニヌルタ神の母という事になる。その場合他に八人の子供を設け、リルの母になる。

また、偉大な神の他にそれほどメジャーではない神の配偶神になることもあった。その神は野獣にまつわるシュメルの神、シュルパエ(Sul-pa-e)である。彼はマイナーな神であったからそれほどはっきりとした性格等は分からない。そのため個別ページを設けず、ここで解説してしまう。彼の名は「輝かしい若者」を意味するがどうやら名に反してニンフルサグ女神との間に三人の子がいたそうだ。その場合子はアシュギ (Ašgi)神、リシン(Lisin)神、リル(Lil)神であった。

後世の伝承では、シュルパエ神は悪魔の一員とされている。天文学的には、木星の多くの名前の一つとして扱われることになった。ちなみにシュルパエ神の配偶者になる場合、ニンフルサグ女神はエンリル神の妹ということになる。繰り返すが、シュルパエ神は非常にマイナーな神である。

随獣

同一視されたダムガルヌンナ神がライオンを随獣にしていたためライオンでもいいかもしれない。そもそも地母神とネコ科の生物は相性がいい。また、彼女のモチーフの一つに「牛の親子」があるが、それは随獣といった風ではない。

描かれ方

彼女は「エンキとニンフルサグ女神」ではニントゥール(Nintur)、ダムガルヌンナ(Damgalnuna)、ニンキシラ(Ninsikila)と呼ばれていた。

例えば、E-anatumの有名な「ハゲタカの碑」のように、女神の乳を吸ったと主張する王もいます。また、多くの王が自らを女神の「最愛の人」と称しました。

また、ニンフルサグのような母なる女神によく見られるシンボルは、ギリシャ文字のオメガ(Ω)の形をしており、おそらく子宮を表している。また、東地中海地域でよく見られる「牛と子牛」のモチーフも、ニンフルサグ神や他の出産・母性の女神を意味しているのかもしれません。このモチーフの彫刻は、ニムルードで発見された象牙群の一部であった。


←オメガシンボル。ナイフがついていたこともありそれは出産に使用した道具を表すと思われる。

 牛と仔牛の親子のモチーフは →
地母神のモチーフの一つである
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後世の扱い

ニンフルサグ女神に限らず、地母神一派は紀元前二千年頃に癒しの女神グラとイシュタル女神に信仰が奪われ、信仰は細くなった。しかしやはり古き神の一柱、紀元ギリギリまで粘るのだが、イシュタル女神のように広域に影響を与えるには至らなかった。

余談

ちなみにエンキ神とニンフルサグ女神が創造合戦をする神話があり、そこでニンフルサグ女神は敗北している。エンキ神も創造神としての側面があるため仕方がないとはいえ、ニンフルサグ女神は創造に特化しているため個人的には勝ってほしかった。

主要参考文献

Black, J.A., Cunningham, G., Ebeling, J., Flückiger-Hawker, E., Robson, E., Taylor, J., and Zólyomi, G., The Electronic Text               Corpus of Sumerian Literature (http://etcsl.orinst.ox.ac.uk/), Oxford 1998–2006.

Frayne, Douglas R.; Stuckey, Johanna H.. A Handbook of Gods and Goddesses of the Ancient Near East . Penn State University Press. 

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