ナンナ/シン神

ナンナ(nanna)/シン(Su’en/Sîn)神はシュメールにおける男の月の神である。その名はあまり知られていないが、八世紀と九世紀にかけて世界の文化の中心地の一つであったシリアのハッラーンに影響を与えるなど知る人ぞ知る偉大な神である。我々も直接的な関わりは薄いとはいえ、やはり文化を辿ればナンナ/シン神に行き着くこともあるだろう。

シュメル語名はナンナ、スエン、又は二つ合わせてナンナスエン神と呼ぶこともあった。アッカド語に名が変わるにつれスエン神がシン神という発音に変化し、シン神という名で統一された。またアッカド語ではen-zuとも綴られることがあったがその場合も発音はシンであった。

もっていた役割

月神だけあって、彼はメソポタミアの偉大な七神に必ずといっていいほど選抜される神であった。

しかし私は彼の持つ役割を説明するのに些か苦労した。メソポタミアの偉大な神は多くの役割を持っている。イシュタル女神のページがいい例だと思うが、彼女の役割は基本的に「良い結果をもたらす」もので豊作になったり戦争に勝ったりすることを助けるもので、我々も祈りを捧げるイメージが付きやすいだろう。

しかしナンナ/シン神の役割は「世界を正常に保つ」ことに特化している。時間を制御したり世界を浄化したり宗教をそれほど重要視していない人間にとってはそもそも願ったことすらないことばかりである。しかし世界が神のおかげで運用されている、神がいなければ世界は立ち行かないと考えていたメソポタミアの人々にとっては重要な神だったのだろう。

時間の神

メソポタミアの天文学大系(といっても占術に寄っているのだが)『Enūma Anu Enlil』(エヌマ・アヌ・エンリル)では、ナンナ/シン神は時間を計り、季節を定め、潮の流れを調整している神とされている。現代我々が知るように月と潮の満ち引きは関係しており、彼らの天体に向ける熱意のことを考えればその関係には当然彼らも気づいていたのだろう。

彼らがナンナ/シン神という月神に時の神としての役目を任せたのは彼らが太陰暦、月を参考に暦を作っていたからだろう。メソポタミアにおいて月神が太陽神ウトゥよりも上位に置かれていたのは暦が月に依拠していたからだと思われる。

王女の神

ナンナ/シン神は王女、つまり王の娘に最も信仰された神であった。それは一種の伝統で、始まりはかの有名なサルゴン王の娘、エンへドゥアンナ王女の時代であった。彼女はアッカド人ながらシュメル語を使いこなし史上最古のバイリンガルであると思われる人物である(小林 25p)。

サルゴン王は被差別民から成り上がりでメソポタミア統一を成した偉大な人物であるが、その治世の幾らかは人種問題について費やされている。それは現代のような平等を望むものではなく、被差別民であるアッカド人のサルゴンがシュメル人を円滑に支配するためのものだった。

その政策の一つとして、エンヘドゥアンナ王女はシュメル人の都市ウルのナンナ神の神官となり、ウルに訪れている。しかし、シュメル人のアッカド人への反発から一度はウルを追い出されたそうだ(メソポタミア全史57p)。

ちなみにエンヘドゥアンナは多くの詩の編纂や制作に携わっており、才も学も備わった人物である。世界最古の女性詩人の一人なので今後歴史上の女性の活躍が更に注目を集めればもうちょっと知名度が上がるかもしれない。

それはさておき、なんとメソポタミアの王女がナンナ神を祀る女神官になる伝統は、新バビロニア王国最後のナボニドス王(前555-539年)の時代、エンニガルディンナ王女まで約1800年も続いた

こうした伝統もあってナンナ神は男であるが、王女との関わりが深い。それは政治の面で作用することがあった。メソポタミアには女王、つまり女性でありながら王位についたとされる人物は一人もいないことが分かっている。時折セミラミスのような人物が女王として名が挙げられることがあるが彼女は後世の創作であると言われている。

しかしそんなメソポタミアでも時折夭折(早死に)などの事情で女性の王族の権力が増すことがある。そんな時、王女は過去にナンナ神に仕えていたケースが多いため、その当時の王に王女が何らかの働きかけをし、ナンナ神の信仰がその都市で飛躍的に広まることがある。分かりやすく突然ナンナ/シン神の神殿が建ってられれば王朝の女性の権力がその時高まったのだと考えられる。

元は打算でできた伝統であるが、この伝統によって教養深い女性達が月を讃えた詩を多く書くことになり、結果的には世界芸術に多くの影響を与えた…かもしれない。もしそうでなくても彼女等の詩は美しいが。

牛飼いの神

動物、特にウシの繁殖力に関係している。これは三日月が牛の角に似ているからだと言われている。くだらないといえばくだらないが、牛に関することは彼らにとっては重要だ。牛は神聖でいるだけでなく、牛は生活上重要であった。こうした理由で幾らかの牛に関する困りごとは彼が頼られた。

儀式の神

呪いの儀式では、ウトゥ\シャマシュ神とともにナンナ/シン神を呼び出すことも多かった。占いや治療のテキストにも登場する。

その中でも重要なのは妊娠の儀式である。おそらく月経と関係して、月の神である彼は出産に対して何らかの権限があると思われた。彼の飼っていたとされるゲメシン(Geme-Sin)という美しく妊娠した牝牛の出産の痛みをナンナ/シン神が和らげたエピソードになぞらえて、出産する女性の妊娠の痛みをナンナ/シン神に和らげてくれるように願ったようだ。

崇拝された場所

ナンナ/シン神はメソポタミア全土で信仰された上に、その周辺の国家にも多くの影響を及ぼした。しかし、彼の信仰の中心は初期王朝時代からずっとウル(名前は似ているがウルクとは別の都市)であり、都市神として実際にウルに住んでいると考えられていた。

住んでいたと思われたのはウルに数多くある神殿で、最も重要な神殿はエキスヌガル(E-kis-nu-gal)神殿であった。これは翻訳すると「アラバスタの家」になる。もし本当に雪花石膏で出来た神殿であればそれはそれは絵になったであろうが、ウルは既に発掘されており、そのような施設は見つかっていない。しかし雪花石膏の芸術品はいくつか見つかっているので、そうした芸術品と縁があるという意味の名前かもしれない。

ちなみに、後にバビロンでナンナ/シン神の神殿が建てられていたときもエキスヌガルという名が使われている。

ウルの遺跡。

By M.Lubinski from Iraq,USA., CC BY-SA 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0,

ジックラトといえばバビロンであるが、ウルの神殿境内のジックラトも、中々イカしていて、“Foundation Platform Clad in Terror.”「恐怖をまとった基礎台」という良いタイトルが付けられている。

毎年ウルの第10月には、ナンナ/シン神を讃える大きな祭が行われた。また、第1月と第7月の春分の日には、それぞれアキトゥ祭を行った。春分の日のアキトゥは、天空で太陽が月より優位に立つことの始まりであり、秋分の日のアキトゥは、月が太陽より優位に立つことの始まりであった。したがって、ウルにとっては秋分の日の祭りは月の神の復権ということで重要であった。そんな嬉しいなら春分の日は祭りするなよ。

ウルやバビロンの他にはラルサ、ガエシュ、キシュ近郊のウルム、ボルシッパ、ウルク、アッシュルなどにも彼の祠や神殿があったとされている。

神話上の活躍

ナンナ/シン神はその知名度に反して、神話での活躍は非常に少ない。そのため、キャラのイメージがしづらく彼の性格は想像しがたい。しかし、もし本当にメソポタミアの人々が彼の性格を思い描いていないのであれば、数ある神話の中でナンナ/シン神がキャラ崩壊する場面があるはずである。メソポタミア神話の作者はバラバラなため基準がなければ全てが一致するとは考えづらい。

例えば神々の会議のシーンなどではナンナ/シン神は全然発言しない。しかしその彼の姿勢はどの神話でも非常に一貫されて、感情的になることもあるメソポタミアの神々の中にあって怒るシーンや、悲観的な意見を口にするシーンは私が知る限り一つもない。

もし、メソポタミア全土の神官の中に共通のナンナ/シン神のイメージがなければ、一人くらい感情を露にするナンナ/シン神がいるはずである。となると彼は神として、キャラクターとして、あまり目立たないペルソナを有していると思われていたことになる。

というわけで、彼の性格は怠惰、人見知り、クールといったものであったと思われる。

そんな彼の性格がなんとなく分かる神話がある。それは『ナンナ/シン神のニップルへの旅』である。これは非常に特殊な神話で、実在の出来事が神々の行いとして描かれている。もちろん現実に起こった戦争などを後から神の手によるものとする計らいは古今東西数多くあるが、これは、実際の小旅行を神話として描いたものである

超偉大な神の癖にそんな際物神話でしか活躍しないナンナ/シン神さんサイドにも問題はあるが、この神話は本当にただの旅行である。さて、メソポタミアは偶像崇拝の本拠地である。先ほど述べたように神殿に置いてある像を実際の神として祀っていた。というわけで人々は像に食事を用意したり、服を着せたりするのだが、この『ナンナ/シン神のニップルへの旅』はナンナ/シン神の神像をウルの人々がニップルまで旅行させた際の事を描いた物語である

神像は木や粘土や石を使用したものにメッキを施したものでそれほど重くはないだろうが、神の乗り物ということで恐らく絢爛たる神輿が用いられたであろうとは思われる。その神輿は本文中では船と形容されている。ウルの人々はその大きな神輿を実に150km、恐らく六日間運び続けた。しかし野宿ではなく道中の都市に泊めて貰っていたようだが。

この度の目的は、ニップルの都市神にして、父であるエンリル神に豪華な贈り物を届け、ウルの繁栄を願うことであった。

ナンナ/シン神は非常に人気でゆく先々で歓迎を受けるが、旅の目的を忘れず行動し、主神に対しては殊勝な態度を貫いている。

そしてなんとこの度は実際の出来事であるが、神の会話が本文では補完されている。つまり、実際にはウルの人々はナンナ/シン神の神像をエンリル神の神殿に運び、エンリル神の神像と対面させる儀式があったのだろうが、メソポタミアの神官達はそこで二人の神の間に交わされた会話を夢想し、その内容を綴っているのだ。おままごとと言われればそうかもしれないが、創作活動とは得てしてそういうものである。

と、いうわけでこの神話にはナンナ/シン神のスペシャリストであるウルの神官達によって紡がれたナンナ/シン神の会話が記載されている。ここからナンナ/シン神の持つ人格が判断できるというわけだ。そして私がこの物語を読んでみた感じ、彼の性格はバカ真面目だと思われていた可能性が高いと思われる。

不必要な発言はせず、王である父を讃えながらもウルの繁栄という役目を果たし、道中の誘惑には屈さず、しかし都市の良いところは褒め称える。更にはそんな自分に自信満々で自らアシュインバッバル(Ašimbabbar)「輝きながら昇る」 を自称する。

これは後の家系図の項で説明するが、彼が神の王の息子、つまり王子であり、さらに時や大地の浄化など世界の管理に関わる重要な仕事を担っていたことを考えれば妥当であろう。王子にして管理職?の有能真面目キャラ、それこそがナンナ神である。神話でもうちょっと活躍してくれてもいいのに…。

そんな彼であるが、対象に彼に仕える巫女はシュメール地方の物語のメジャーな登場人物である。ウルでのナンナ/シン神のエントゥ(Entu)と呼ばれる高位の巫女の任命は、国中で注目される儀式であり、年号に記録されるほど重要なものであった。それは恐らく国中から集まった才女の中から更に選りすぐった者が任命される役職であり、民の尊敬を集めていた。もし物語でウルのエントゥが唐突に登場すれば物凄く良い助言を送ってくれる場合が多い。

他の神々との関係

主神エンリル神とその妻ニンリル神の子である。そのため頻繁に王子と呼ばれるし、神の王子という名詞が出ればナンナ/シン神である可能性が高い。別の伝承ではアン神の子とされているが、エンリル神の息子という方が圧倒的にメジャーである。

彼の兄弟はネルガル神、ニンアズ神、エンビルル神などがいる。妻は偉大な女君主の名を持つニンガル神、またはウルの女性を意味するニンウリマ神(Nin-Uri-ma)がいた。やはりメジャーなのはニンガル神である。

ナンナの子供で最もよく知られているのは、太陽神のウトゥ/シャマシュ神と、金星の女神イナンナ/イシュタル神である。私にはなんとなく月と太陽は兄弟のイメージがあるためよく間違える。

他にも、割と多くの神がナンナ/シン神の子供として描かれる。ニングブラガ神、女神のアマラ・アズ神とアマラ=イーア神なども彼の子供として扱われる。単純に血筋が欲しいならエンリル神でよいし、何らかの所縁はあったのだろう。宰相としてアランムシュ神という存在がついていたとされているが詳細は不明。

家系図としてはこの通りだが、月な神であるこの神は月の満ち欠けが独り手に行われる様から、自分自身で自分自身を産むことができた(最古のP126)。分身とかそういった意味ではなく、彼の出生そのものが彼自身によって行われるという意味だ。我々からしてもよく分からないが、当時の読者にも想像し辛かったらしく、これは特殊なケースとして扱われる。メソポタミアではまだ無の概念は普及していなかったが、彼はいち早く無からの誕生という行為を扱っていた、のかもしれない。

神話『エンリル神とニンリル神』では、エンリルがニンリルを犯すことで月神が宿り、それが露見したエンリルは冥府に追放された。

随獣

ライオンドラゴンの図(J.A., Cunningham 121p)。

随獣は雄牛とライオンドラゴンである。雄牛を随獣にしている神はアン神とエンリル神がいるのだが、彼らが王子ナンナ/シン神の親であることを考えると、メソポタミアの神の王家の象徴として随獣が扱われているのかもしれない。

さて、問題のライオンドラゴンであるが、彼は姿こそ大量に残っているものの正確な名前が分かっていない。彼はライオンの上半身に、鳥の下半身、更に鳥の尾と翼を持って描かれている(新アッシリア時代に限っては蠍の尾を持っている)。というわけで我々は彼を便宜上、ライオンドラゴン又はライオングリフィンと呼んでいる。

この獣はアッカド時代から新バビロン時代(ほぼメソポタミア文明の最後)まで描かれ続け、現在のニムルド市にあたるカルフ市にあるニヌルタ神の神殿の壁にも彫られている。この獣はアッシュル神やアダド神も伴って描かれることもあった(J.A., Cunningham 121p)。

結局この獣の名は誰にも分からないのであろう。しかし否定できる要素としてこの生物が明らかに雄として書かれていることから動物の守護神ラマシュ神との関係を否定している。他の女神も同様である。ということで雄のアサックやアンズー鳥といった怪物の別の姿である説、 また動物の神であるイスクル神とする説もある。

あるいは名前などなく、絵画にしか登場しない怪物の可能性もある。

彼の名を呼びたければ、ライオンドラゴンやライオングリフィン、気に入らなければメソポタミアのマンティコア(似ているため)と呼んであげよう。創作に出すため名前がどうしても必要な場合ドラゴンを意味するウシュムガルやライオンのウリディンムに習ってそれっぽい名前を付けてあげればよいだろう。

賛美歌では、時折羊を連れて登場する。これは、星々が羊に、月がその羊飼いに見立てられているからである。an 371~373 ただ例えに過ぎず、随獣とは言えないだろう。

描かれ方

図像内での描かれ方

彼のシンボルは分かりやすく横たわった三日月である。彼の三日月のモチーフはなんと文字が出来る前から使用されていた。先史時代から新バビロニア時代(つまりメソポタミア文明の最後)まで、横たわる三日月はモチーフとして登場する。この三日月は少なくとも旧バビロニア時代にはナンナ/シン神の象徴であったと思われるが、もっと古くからもそうであった可能性が高い。

この三日月そのものにも名前があり、アッカド語でウシュカル(uškaru)と呼ばれていた。この三日月は独立して登場したり、神や女神が持った姿で描かれることもあり、何らかの魔法的な保護力があると考えられていたようだ。

旧バビロニア時代以降、特にカッシート時代には、ナンナ/シン神の三日月は円盤の中に描かれることが多かった。その中には三日月と太陽の円盤が融合して、日食を象徴している様に見えるものもあった。

この画像の帽子はメソポタミアの角冠であるが、その上に載っているバナナのような物体が三日月である。

右図の座っている男性はウルの王ウルナンムを描いたものだと思われるがその上には横たわった三日月が彼を見守っている。

雄牛の頭が描かれた場合、アダド神かナンナ/シン神の象徴である。詳しくは古バビロニア時代にあってはナンナ/シン神の象徴である可能性が高い(J.A., Cunningham 47p)。

新アッシリア、新バビロニアの美術では、ナンナ/シン神と思われる神の上半身が三日月から出ているように配置されることがある。少なくとも1つのネオアッシリアの円筒印章には、翼のある三日月の中央に神が配置されており、神は三日月頭の帽子をかぶっている(J.A., Cunningham 54p)

また現在のトルコにあたるサムサットには船に乗ったナンナ/シン神の図像が残っているのだが、その図像で彼は片手に三日月を持ち、もう片方にはΩ(オメガ)という形のシンボルを持っている。

このオメガシンボルは現代の解説者の間では、体重計、戦車の車輪、彗星、大きな角を持つ四足動物、頭巾、かつら、赤ん坊を抱くための帯、あるいは子宮など、さまざまな解釈がなされている。しかしナンナ神が持っている理由は分からない( J.A., Cunningham 146p)。

これがオメガマークである(146p)

文章内での描かれ方

彼はイナンナ女神と並び、男神では最も多くの讃美歌が書かれている人物であるといえる。それは彼の王女の神としての経歴、つまり詩を書く立場にあった人物に多く信仰されていたからである。

そういうわけで、メソポタミアには月そのものであるシン神そのものを讃える歌が多く残っており、ウル(彼の治める土地)の王冠であるとか、地球が輝いているのは貴方を照らすためだとか、貴方の光は大地の全てを照らし浄化するとか、我々からみても詩的な表現が多く残っている。

当然、我々からみても月は美しい。しかし当時の人々はナンナ神への信仰から月が美しく感じていたのか、それとも月を美しく感じるから芸術家によるナンナ神信仰が増えるのか。どちらにせよ伝統を除いてもそれ以外の詩に携わる人間に対して何らかの求心力があったことは間違いない。

そんなわけで彼には讃美歌が多く、彼のあだ名は他の神とは比べ物にならないくらい多い。

そんな中でも頻繁に見られるのがアシュインバッバルと王子という誉め言葉である。エンリル神の息子としての立場が重要視されたのだろうか。他にも彼は牛飼いだと詩の中で言われたり、ドラゴンであると言われたり、ライオンだと言われたり我々には分からない誉め言葉もやはり多い。強い生物ならなんでもいいのか

「輝きながら昇る」の意味するアシュインバッバル(Ašimbabbar)の他に、ナムラシット(Namrasīt)「輝く者」、インブ―(Inbu)「果実」などの別名があった。果実は月の満ち欠けから連想されたものだと思われる(J.A., Cunningham 135p)。

他の称号には、ディリムバッバル(Dilim-babbar)「白または輝く柄杓」、マグル(Ma-gur)「舟」、ヘドゥアンナ(Ḫedu-ana)「天の飾り」、アマルバンダエンリラ(Amar-banda-Enlila)「エンリルの若い(または野生の)子牛」などがある。

後世の扱い

紀元前一千年頃のアラビア半島にあったアラブ王国では紀元七世紀にイスラム教が伝来するまでの間は独自の宗教を信仰していたが、その中の月神アグリボル神(Aglibol)はシン神の名で呼ばれることもあった。

紀元前六世紀から五世紀にかけてアラビア北西のタイマ(Tayma)には月の神の神殿があり、この地で治世の12年間を過ごしたバビロニアの王ナボニダス(556~539)はそこでナンナ・シン神を崇拝している。

しかし、新バビロニア時代の北シリアにあるハッラーンにも重要な神殿があった。この神殿では息子のヌスク神と共に信仰されており、ナボニダス王の母がここの女神官であった。ナボニダス王は自身の娘をウルのシン神の神官にもしている。

このハッラーンの月神の神殿は、キリスト教時代になってもその地位を保っていた。現在でも彼の地は観光地になっているが、そこで再現されているのはこの時代の風景である。

現在も観に行くことが可能なハッラーンの遺跡。By Zhengan, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0,

またアッシリア帝国時代において地位を向上させたナンナ/シン神はアッシュルに次いで二位の座に就くことがあった。

余談

書くまでもない彼の役割を説明する。

暦ではニサン月(現在とは暦が違うので断言できないが無理やり当てはめれば一月)13日はシン神の日(ボテロ277p)となっている。理由は不明である。また神が数字を割り振られる場面では30が選ばれている。他の神はキリの良さなどで選ばれているのだが、シン神は月の神ということもあり明らかに暦が関連付けられている。また月神でありながらネルガル神とともにふたご座との関係が示されることがある。

これからは私の感想になるのだが、正直彼を調べるのは非常に苦悩した。というより、まだまだ説明できる点は多くあるはずなのだが、資料が手に入らないものや高価なものが多く、このページを完璧に仕上げるのは幾らか先の事になりそうだ。

主要参考文献

ボテロ、ジャン、松島英子訳『最古の宗教ー古代メソポタミア』(りぶらりあ選書)法政大学出版局、2001

J.A., Cunningham, G., Ebeling, J., Flückiger-Hawker, E., Robson, E., Taylor, J., and Zólyomi, G., The Electronic Text
Corpus of Sumerian Literature (http://etcsl.orinst.ox.ac.uk/), Oxford 1998–2006.

その他の参考文献

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  4. アン/アヌ神

  5. 『アン・アヌム』(神名目録)

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  8. メソポタミアの聖職者達

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