メソポタミアにおける宇宙開闢論と世界観

はじめに

メソポタミアの神々は神話を前提として成り立った存在ではなかった。我々のよく知る宗教ではその神にまつわる文書が消え去ってしまえば神の教えや存在を語ることもできず、すぐにでも忘れ去られてしまうだろう。

しかしメソポタミアの偶像崇拝の宗教観では、神は実際に神殿に住んでいると考えられていた。そのため神話などの物語は他の宗教より比較的重要性が低く、メソポタミアでは神学者が書いたということが分かっている神話であろうと人々の間では受け入れられていた。そして驚くべきことに神学者が新たに考え出した神であろうとも説得力さえあれば実在するものとして、儀式が行われ捧げものまでされたのだ。

というのも神の実在は彼らにとって前提であったので、神話は神の説明というよりは現実の事象の説明に当てられていたし、神話の内容を信じるか否かは信心の深さとはまた別の問題であった。神殿の神に尽くしさえすればいいのだ。

そういったわけで彼らの神話には書かれた都市や書いた神官次第では全く矛盾する記述がいくつもありしかしそれは宗教の破綻を招くものではなかった。彼らの考えは正確には分からないが、どうやらそれぞれの神話は説の一つとして受け入れらていて、特定の神話を信じていようとも他の神話を否定する理由にはならなかったようだ。

当時神学者が新たな神の存在を主張するのは作ったという意味でなく、発見したという意味合いで受け取られているのだと思われる。この世の全ての解き明かせない謎には全て行為者である神が関わっていると考えられ、草木を成長させる神や、家畜を繁殖させる神などよくわからない出来事は全て新たに神話を作ることで問題が解決した。当時の学者達の仕事の一つはこの世の謎はどの神の行いによるものなのかを解き明かすことであった。

そのため文明が発達した後も神が誕生することがままあったのだ(しかしある時期からメソポタミアのパンテオンの流動は停滞している)。卑近な例を出すと、ダイエット記事などで健康にいいとされているものが大学の研究結果で覆る感覚に似ているかもしれない(多分違う)。

しかし神学の発展が現在の科学の発展のようなものと受け入れられたというのが今の私に可能な最も明瞭な例えである。かといってそういった創世神話群が現代の学問のように体系じみた記述やそれをまとめた書物が存在したわけでなく(ボテロ 129p)、また旧約聖書のように全宇宙の誕生から人類の創造に至るまでを同時に記したような粘土板はなく、メソポタミアの神話は他の要素には軽く触れただけで一つの疑問に対する解答で終わることが多かった。

まさに研究のレポートが近しいように思える。彼らは最も「真実味」のある宇宙創世の歴史を考えることに腐心したが、学者同士で話し合いそれを擦り合わせるようなことはせず、各々が最も信じた神話以外には口出しせず他者への関心はなかった。

そのため彼らの世界観は記述によって全く異なり、取捨選択することはできない。恐らくは現代では破損してしまった説や、口伝ではそれなり広まった説も知らないだけで何十とあるのだろう。この項では残った幾つかの説に目を通すことで見つかったある程度の共通点を述べさせていただきたいと思う。

世界観

この場合の世界観とは彼らが世界をどのように見ていたかという意味である。非常にざっくりした言葉であり宇宙開闢などもここに含めるべきかもしれないが長くなるので別に用意している。宗教的価値観には別のページがあるのでここでは彼らが世界をどのような形状と考えていたのかを主に述べたい。

そう、述べたいのだが、考えがかなり多岐に渡っており、共通しているのはそれこそ地下に冥界があることくらいである。

J・ボテロの『最古の宗教』で紹介されている教養人によって編まれた『神学注釈テクスト』という『創世叙事詩』についての補足のテキストを紹介する。このテキストでは世界がティアマト神の死体でできているという珍しい説が採用されているが、この注釈テキストはそれほど常軌を逸した説ではないはずだ。

天の上部 アヌ神の住処
天の中部 天の神々(イギギ)の住処 マルドゥク神の住処もここに当たる。
天の下部 星や天体の場所 神々の投影図かつシンボルであった。
一番上の大地 人間の幻影が収容される場所(要解説) わざわざ死すべき存在だと強調するために「幻影」である。
中間の地 アプスー(広大な地下水) エンキ神の住処である。
最低部の地 冥界の神々(アヌンナキ)の住処 人間の幽霊もここに集まった。

ボテロ・ジャン、松島英子訳『最古の宗教ー古代メソポタミア』(りぶらりあ選書)法政大学出版局、2001 131p

となっている。『神学注釈テクスト』の考えではこの六層建ての楕円形の世界が海に浮かんでいたというわけだ。彼らの考えでは海は宇宙よりも大きい場合がある。というより宇宙(天と地)は海の上に浮かんでいるという考えであった。分かりづらい場合は彼らにとって天は個体でありドーム状の天井に星や太陽が張り付けられたものであったと考えよう。当然地球は丸くないと思われていたので巨大な海の上に天が浮かんでいる形式になる。

楕円形の宇宙は上半分が光の世界『上方の世界』『天』であり、下半分が暗闇の世界『下方の世界』『冥界』であった。楕円の中心部分に島のように大地が浮かんでおり、大地の裏にはアプスーが存在した。アプスーは淡水を意味するが、それとは別に淡水に溢れた豊かな場所としての意味もあり場所としてのアプスーはこの地下の空間のことで、地上の川はこのアプスーから流れ出ていると考えられることもあった。

そして大地と海を隔てた東の端と西の端に天空を支える山と、冥界と上方の世界をつなげる通路があると考えられた。このような冥界と現世をつなげる場所は時代や都市によって異なる特定の場所が選ばれ、都市部の近くにあることもあった。

メソポタミアにおいて太陽が沈むのは太陽の神であるウトゥ/シャマシュ神が夜中は冥界にいるからだと考えられており、彼らはこの東西の端にある通路から冥界に戻り、木々を切り裂きながらまた東の通路から地上に出てくると考えられていた。西の口の前には水面が広がり、冥界の川と呼ばれる存在があるとされることもあった。

またその楕円形の端は取り囲むように山々が連なり天を支える柱の役割を果たしている。この天を支える山の概念は旧約聖書ヨブ記二六章一一節の「天の柱」や巨人アトラスとの関連もありそうである(ボテロ 132p)。

このような最果ての山がある海の向こう側の地域は非常に遠いことが殊更に強調されており、ギルガメシュは物語の中でも不死身の秘儀を探ろうと東の果てに向かっているがこのように遠く離れた場所に訪れること自体が偉業であった。それらの場所は現実の国の位置と当てはめることも可能であるが、天竺に神がいないように彼らのそれは想像の産物であったためあまり意味はない。

宇宙開闢

ここでは宇宙がどのように誕生したと思われていたのかについて述べたい。

先ほども少し名前を出した『創世叙事詩』は遅くとも前1200年頃に成立した作品である。この作品においては、マルドゥク神が原初の神であるティアマト神を討伐し、その死体から宇宙を創造する光景が描写されている。海水であるティアマト神と淡水であるアプスー神の交わりから神は誕生していき、アンやエア、そしてマルドゥク神が産まれる。物語は別頁へ。ややあってマルドゥク神はティアマト神の死骸を二つに割き(干した魚のようであったと描写されている)、その半分は天を覆うように配置し『上方の世界』をつくり、もう半分を使って大地を作った(ボテロ 130p)。頭からはメソポタミア北方のコーカサス山地が生まれ、二つの眼からはティグリス川とユーフラテス川の源が生まれ(セム語系で眼と泉は同じ語を指す)。また二つの乳房から遠方の山並みが生まれた(ボテロ 144p)。

この説は様々な面で斬新であり、過去の多くの神話と矛盾しているが、それでも結局海から世界が産まれるという考えはあまり変わらなかった。

海から世界が産まれるというコンセプト自体は多数存在し、淡水との交わりで生まれるという点も少々特異だが問題ない。しかしこの作品のように海の神を討伐して死骸から宇宙を創るパターンは非常に珍しい。これはこの作品が現代では『創世叙事詩』という名前で呼ばれているものの実際にはマルドゥク神の権威を高めることが目的であり、古い神を新しい神が倒す必要があるからだ。そのような事情があるためこの作品においては人類を創造したのもマルドゥク神であったが、人類創造にエンキ神以外が取り掛かる事は非常に珍しいケースである。

しかしこの作品がメソポタミアのあまりに多い創世神話の整理に役立ったのもまた事実で、この作品はほぼ形を変えずにメソポタミア全域に拡がり、紀元後五世紀のギリシャにも伝わっていた。そのためメソポタミアにおいて王道の展開ではないものの一つメソポタミアの創世神話を挙げるとすれば第一候補に挙がるだろう。

ちなみティアマト(海水)とアプスー(淡水)の交わりで神が生まれるとされた前はナンム神という海の女神が一人で神を産み出し、やがてその子らからアン神とキ神が産まれ、その二柱によって創世がなされる、あるいはその二柱の誕生をもって世界の誕生とするというのが大筋であった。

原始の海」という単語を耳にしたことがあるかもしれない。もちろんそれは生物が進化し海から出でた事を表した言葉であるのだが、メソポタミア神学においても海は原始の存在だと思われていた。メソポタミアの人々は先述の通り謎があればすぐに神話を用いて解決していた。そのため創造神であるアン神やマルドゥク神が「世界ができる前の存在ってどうして存在できたの?」という疑問も漏れなく解消されており、ナンム神とティアマト神のような海の神は創造神がどのようにして生まれたか、という疑問を解決する存在であった。世界創造に焦点を当てた作品で彼女等、あるいは他の海の女神が登場しないケースは存在しなかった

つまり神が無から生まれることはなく、常に混沌、海が存在しそこから原始の神々が誕生した。しかしナンム神とティアマト神の誕生について言及される場面は確認されていない。何故か海が最初から存在したことが疑問視されることはなかった。

神々による運命の管理

メソポタミアの運命観は非常に多くのパターンがあるが大筋は変わらない。メソポタミアにおいては神々がこの世の物事全てを運命づけ、決定した。

この世に起こる全ての出来事が記された「運命のタブレット」を持つエンリル神やマルドゥク神が全てを決めるという考えや、神々が大勢会議を行い運命を決定、随時「運命のタブレット」に記したという考えなどがあった。バビロンでは盛大な新年祭が行われたことが有名だが、その際に世界は一度作り直されその一年で起こる全ての出来事が決定されると考えられていた。

彼らの考え方では多くの場合この世の運命は全てある時点に決められているのだが、あまりにも辛いことがある場合は個人神を通して上位の神アヌンナキ達に伺いをたて、運命を変えることが可能であるとも考えられていた。しかしこの時点で非常に多くの矛盾が見られる。

全て決められているなら運命を変えるような事態の必要はないはずだし、人々は神への奉仕をサボると裁きを受けると考えていたが神々が運命を決めているならそのような裁きを受ける人間はそもそも誕生しないはずである。しかし、あまり深く考えられることもなかった。

世界観についての項で述べておく必要のある事がある。彼らはあまり矛盾を解決する必要を感じていなかった。もしかしたら疑問もあったのかもしれないが、少なくとも我々の目には残っていない。単にあまり矛盾を気にしない文化だったのかもしれない。

国の王達から民衆に至るまで全員が夢や占いを通して神が日々の問題に介入してくると考えていた。メソポタミアには多くの種類の占いがあるがそれらは神が自然のものに人々の運命をこっそり書き記しており、占いに従事する人々はそれを読み取っているのだと考えられていた。

神の言葉には決して曲げられない力があり、神がもし夢や占いで何かを告げたのであれば人間は決してそれを覆すことはできず、神自身にしか変えることができない(ボテロ 151p)。そのため人々は捧げものをし、神を讃え運命を変えてもらおうとしたのだろう。

こうした「運命のタブレット」という考えの影響もあり、名前はその物事の本質を表すと考えられていた。当時は神々がこの世の全てのことを決めた際に全てのものにその役割に際して名前を付けたと考えられていた。名前はそのもののいわば本質であり、神ですらその名前から外れたことをすることはできなかった。

そのため神や動植物や個人名に固有の名詞が当てられることは比較的少なく、名前そのものが単体で意味を成す短文であったり他のものとの関係を指す名前であったりすることが多い。固有名詞が少ないため神を示す限定符であるディンギルなどが必要になるのだ。アンにディンギルがなければ単に天を指し、あればアン神のことを指すなどまさに名はそのものの役割をそのまま表したものが使用された。

J・ボテロによると前一千年紀になると人々は運命を指す名詞そのものに超自然で神的な性格を感じ取りディンギルをつけ人格を持つ存在だと考えた。そして人々が祈祷の中で運命を人に見立ててその心を鎮めるように祈っている。これも新たな神の誕生といえるだろう。

同じくJ・ボテロによると伝統に精通していたバビロンの神官であるベロッソス(Berossos)はメソポタミアの世界終末論を後の世に伝えているようだ。彼によると世界全体の長さは「12サルの12倍の年数」、144サル年であると伝わっていたらしい。1šarは3600年を意味したため総計51万8400年になる。しかし彼らの正史として扱われた事も多いシュメルの王朝表では既に43万2000年の年月が過ぎて事になっており、さらに有史以後にも時間が経過したため、ベロッソスによる記述の時点では残り12サル年、4万3200年であったという。時間に余裕がありすぎて全然焦りがない。余命90年と医者に宣告された気分である。もちろん実際のシュメルに43万年もの歴史はなかったが、彼らはそう信じていたためこうした時間の規模が採用されたのだろう。しかしこの著述以外の資料は致命的に欠如しているし、彼らの宗教観のなかでこの世界終末論はそれほど重要な位置ではなかった。また有名な終末論の一つである最後の審判のような詳細は全く残っておらず、彼らの考えでは世界の終末にいったい何が起こるのか。それは謎のままである

死生観

彼らにとって死とは我々にとっての死、つまり心拍停止時刻を指すのではなく、霊体が冥界に訪れるときだった。我々でいうところの心拍停止、あるいは呼吸停止を迎えた時、人は霊体=エツェンム(etemmu)に姿を変える。しかしそれは彼らにとって身体の死に過ぎず、精神体とも言い換えられるエツィンムはまだ生きていた。人々は時々エツィンムを夢あるいは幻覚、妄想の中で目撃しその存在を証言している。精神病はエツィンムの影響であるとされていた。『ギルガメシュ叙事詩』のキャラクターであるウタ・ナピシュティムは死を眠りと同一だと述べている(ボテロロ 173, 174p)。

しかしエツィンムはいつしか冥界に入り、亡霊の仲間いりを果す。これが彼らにとっての死である。彼らに転生や天国地獄の概念はなく、死者は一律に冥界へ向かった。冥界では亡者は活動することなくひたすら長い沈黙と眠りの中で過ごしたようで、さらにその沈黙が終わることはなかった。つまり彼らの考えでは冥界には一向に死者が増えていったと考えられたのだろう。

しかし、あるときから現実世界の偉大な王や権力者が冥界にいくと他の民衆と同じように過ごすということが信じられなくなったらしく、権力者は冥界にいってもいい暮らしをするのだと思われるようになった(ボテロ 179p)。その考えはメソポタミアが終わるまで覆ることはなかった。

そういう意味では天国と地獄、つまり死後の世界の良し悪しはあったといえるかもしれない。しかし権力が影響するなんてまさに地獄の沙汰も金次第である。加えて今の我々の考えにあるような現世における行いは死後の世界には一切影響を齎さなかった。徳を積んだのだから天国にいくだとか、殺人を犯したのだから地獄に行くのだとかそういった概念は一切なく、どれだけ性格がよかろうが悪人だろうが冥界以外に死者が向かう場所はなかった。

しかし、弔事がきちんと行われていなかった場合に限って死者はそもそも冥界まで辿り着くことができなかったため悪霊となり、現世を彷徨うと考えられていた。彼らはこの悪霊を強く信じており、戦争の際には敵の死体であろうとも必ず埋葬した。しかしこれは敵に情けをかけたのではなく地上に悪霊が氾濫するのを恐れたからである(小林 125p)。

現世利益

メソポタミアは敬神行為が推奨され、当然とされてきた社会であったが、そこに無私の概念はなかったのだ(最古の宗教 272p)。ソポタミアの人々にとって神に尽くす行為は一種の投資であり、人生で成功を収めたいのであれば、神を敬うべきだという考え方が一般的だった。「われは汝が与うるために与う」はメソポタミアの重要な概念の一つである。

当時の彼らには神に見返りを求めることを悪いとする意識自体がそもそも存在しなかった。今の宗教では否定されがちだが、幸せになりたいから祈るという考えほど単純かつ明快なものもそうないだろう。彼らにとって神への奉仕という行為は宇宙全体の秩序にとってならなければならない存在であると考えられとおり、奉仕することは自身を不幸から遠ざけるとともに宇宙を守る誇り高い行いであり、行わない理由がなかった。

この場合の見返りというのは神々が運命を変えてくれるのではないかというものもあるが、もっと俗な話をすると高給取りを目指して勉強をして神官になることも咎められることではなかったようだ。

そもそも彼らにとって神は人々の主であるだけで正しい道に導いてくれる存在ではなかった。神に尽くすことだけが人の存在意義であり、人がどのような罪を犯そうと神に関係ないことであった。

『神中心主義』は人間の存在理由であったが、個人の存在理由はあくまで別にあった。それこそ家族の幸せや安定した収入など人それぞれであっただろうが、大まかにいうとメソポタミアの人々の目的は人生の成功と快楽であった。要は我々と大体同じである。

彼らのテキストには人生の注意点が大量に記されたテキストが残っており、生きる知恵が俗っぽい内容も含め数多く記されている。農民を殴ると水路に害を与えられるぞ!とか、自分より身分の低い召使いと男女の関係を持ってしまうと軽く見られるぞ!など、親から子にその教訓は受け継がれていた。こうした実用的な教えが普及していることからも彼らが現世の幸せを願っていることが分かるだろう。しかしそのような実用的な教訓の中でも神を敬う事は重要であるとして記されていた。まさに祈願は投資であったといえるだろう。

エジプトの人々は死後の世界を非常に重要視したことで知られるが、メソポタミアの民は比較的生きている間の社会を大切にしたようだ。

『ギルガメシュ叙事詩』においてもギルガメシュが不死を求めて旅をし、失敗を侵すシーンがある。この物語の教訓も限りある命を楽しんで生きるべきだという現世を大切にする観念に基づいたものだろう。このメッセージはそのまま酌婦シドゥリがギルガメシュに忠告した通りである。しかしギルガメシュはもちろん忠告を守らず旅に出るが、忠告通り不死は見つからず生を謳歌することが生きる希望であるとされたのだ。

参考文献

小林登志子『シュメルー人類最古の文明』中央公論新社、2005

ボテロ・ジャン、松島英子訳『最古の宗教ー古代メソポタミア』(りぶらりあ選書)法政大学出版局、2001

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