メソポタミアには数百は下らない儀式が存在し、その内の幾つかは数千年間という今なら文化パワーだけで観光産業が成り立ちそうな期間続けられているぶっ飛んだ祭りが数多く存在した。彼らの場合伝統の保持を果たす行為自体に宗教的意味合いが含まれていたという事情もあり、戦争中であろうが国が滅びるまで重要な儀式は続けられたし、場合によっては戦争に負けて属国になったとしても儀式は行われた。
数多の儀式があったわけだが、ここでは便宜上毎年決まった時期に行われる儀式を「年中行事」、時期を問わず毎日行われた神々に対する儀式を「神殿の祭儀」、必要に応じて個人のために行われた儀式を「個人の祭儀」に分ける。学術的な定義ではないため悪しからず。
以下免責事項というか、言い訳になるがメソポタミアの歴史は大変長く、メソポタミアの人々がいくら保守的であったとしてもその時々で儀式の内容や意味合いが全く変化しないという可能性は非常に低く、私が述べた儀式の意味合いや内容は数千年の歴史の一場面を切り取ったのみという事を理解して頂きたい。
また紹介する儀式も有名である、あるいは私にとって興味深いものに絞られており、このページ自体一切網羅的ではない。それでも日本のインターネットには今までなかった情報が多く載っているとは思うが、最低限の知識である程度に捉えておいて頂きたい。
目次
年中行事
新年祭
新年祭はシュメール語でザグ・ムク(zag-muk)直訳で「年の敷居」、アッカド語でレーシュ・シャッティ(rês šatti)直訳で「年の始め」と呼ばれており、宗教的な意味だけでなく政治的にも非常に重要であった。人々は神々が年の始めに宇宙を創造し直し、時間を再び新たにすると考えていた(ボテロ 261p)。つまり宇宙五分前仮説もびっくりの新年のタイミングで世界は一度生まれ変わるという考えが広く浸透していた。神々はこの新年のタイミングにその宇宙の運命を全て決めていたと考えられており、正に一年の計は元旦にあり、ということになる。
これらの新年祭は時期や場所によって形式も異なるが、世界中の宗教から共通点を見出そうとしたミルチャ・エリアーデも都市バビロンの新年祭を取り上げており、人類の新年を祝う行為の普遍性から世界共通の宗教性を見出そうとしている。
バビロンは特に新年祭に力を入れており、十四日ほど続く。本当に大規模な祭りが何千年も毎年行われたということで既に失われた祭りを含めたお祭り規模ランキングでは絶対ベスト3には入るであろう祭りである。結局都市ごと解体されるまでこの文化が失われることがなかった。この祭りは特別な名があり、Akitu(アキツ)祭と呼ばれた。有名なので英語で調べたらいくつか記事があるはずだ。
筆者は割と本気で過去に戻ってこの祭りを目撃してみたい。以下にスケジューリングの序盤を載せる。
ニサン月一日(一月一日)。現在ではこの日が最も盛り上がるはずだが、バビロンでは始まりに過ぎず神殿の開門と翌日以降の祭礼のための浄めのみが行われた。
2日 祈祷
3日 マルドゥク神とその妻ザルパニトゥ神の神像を製造する。
4日 アキトゥー祭、王権更新の儀式と縁起物語である『創世叙事詩』(エヌマ・エリシュ)の全文朗唱(第五日に行った時期もあった)
5日 祈祷後にマルドゥクの息子であるナブー神とその妻タシュメートゥ神が神殿に訪れる。
それ以降のイベントは記述によって曖昧であるが、マルドゥク神が全国の神、主要な60柱ほどをバビロンの神殿に集めこの都市に起こる出来事の運命を決めていると考えられていた。マルドゥク神の権威が強かったバビロンとその周辺のみで信じられていたイベントである。マルドゥク神の息子であったナブー神はこのバビロン神殿の神々の大集合の際に「運命のタブレット」に神々の決定を記す役割があったと考えられており、バビロンの新年祭の時期が過ぎるとナブ―神とタシュメートゥ神等夫妻は彼らの神殿のあるボルシッパまで帰っていった。
反対にバビロンにある数多の神像が人々によって神輿に担がれユーフラテス川も超えた先にある市街の「アキートゥの神殿」と呼ばれる場所まで運ばれるイベントもあった。向かうだけで二日間かかり、その後もちろん同じだけの時間をかけてバビロンまで帰っていった。
もちろんこれらの記述はかなり簡略化されており新年祭はさらに複雑な行程をいくつか含んでいた。この新年祭の間にあらゆる事柄が再生するイメージを人々は持っており、この時に神々が介入を行わなければ物事は全てやがて崩壊に向かっていくと考えられていた(ボテロ 269p)。実はこのアキツ祭は各言語のwikipediaを全て見ると14日間の予定全部揃うというワザップを確認できたので論文を読む時間があればもっと詳しくなれるはずだ。
人が世話をしないとならなかったという点から時々メソポタミアの神々は弱弱しいと言われることもあるが、メソポタミアにおいてこの世の全ての事象は神々の助けがないと一年も維持されないと考えられていた。もちろん前二千年紀末に『創世叙事詩』が完成するまでは祭りの形はこれとは違っただろうが、バビロンにおいてはそれほど違いはなかっただろうと思われる。
神の婚礼
神々の婚礼関係を祝う儀式が多くの都市に存在している。メソポタミア神話では天そのものであるアン神の精が雨として降り注ぎそれを配偶神であるキ神が受け止めることで植物が実ると考えられていたなど豊穣を祈る祭りとして神の婚礼を祝う祭りは多く存在している。
祝詞を挙げるタイプの祭儀もあるが、シュメルの時代より残っている私たちが知られる最古のものは前3000年紀末~2000年紀初頭に作られたもので、少々特殊である。
ウルとイシンの町で行われた祭りであることが確認できており、イナンナ神とドゥムジ神の聖婚を祈る祭りである。ドゥムジ神はおそらく神格化された古い時代の王族であり、イナンナ神の「第一の愛人」であるとされた。
この祭りはイシュタル女神の自由恋愛を司るという特異な性質上、恋愛情緒的な要素と官能的な要素を含んだ。恋愛感情に始まり、初夜の様子まで描いている。
イナンナは母親の指示を受けて、
水浴びをして上質の香油を身体に塗った。
高貴な特別の衣装を身に纏い、
……
首にラピスラズリのネックレスを飾り、
その手に印章を握りしめた。
そして彼女は期待に胸を弾ませながら待ちこがれた。
その時ドゥムジは扉を開き、
家の中に、一筋の月の光のように入ってきた。
彼は歓喜に満ちて彼女を見つめ、
両手で彼女を抱きしめ、口づけをした……。
小林 256, ll 3-13
初恋のパートは儀式の中でどのように述べられたのかは分かっていない。歌いながらであったのか演じられたのか。しかしその後の婚礼初夜の儀式はどのように行われていたのかは分かっている。(もちろんこれはウルとイシンで行われたものであり一般化することはできないが、)ドゥムジ役を演じる者(初期は王が務めた)とイナンナ役を演じる女神官ルクル(神殿奴隷)が実際に夜の営みを行うことで再現した。その儀式の最中に歌ったものだと思われる情熱的な歌は今でも残っている。
愛しい日よ、私の大切な人よ、
あなたが私に与えてくれる歓びは、蜂蜜のように甘い!
私のライオンよ、私の大切な人よ、
あなたが私に与えてくれる歓びは、蜂蜜のように甘い!
あなたは私を夢中にさせました。私は今震えながらあなたの前にいます!
私は私のライオンが欲しい。あなたが私を寝室に抱き入れてくれますように!
あなたを愛撫させて下さい、愛しい人よ!
私の甘く愛しい人よ、私をあなたの蜂蜜で洗って(?)欲しい!
甘美に溢れる寝室のなかで、
あなたの素晴らしい美しさを楽しみましょう。
私のライオンよ、あなたを愛撫させて下さい。
私の甘く愛しい人よ、私をあなたの蜂蜜で洗って(?)欲しい!
あなたは私からあなたの歓びを吸いつくしました、愛しい人よ!
母上にそうおっしゃれば、あなたに美味しいお菓子を下さるでしょう、
父上にそうおっしゃれば、あなたに贈り物を下さるでしょう!
あなたの心、私はどうしたらあなたの心を歓ばせることができるか知っています!
愛しい人よ、私たちの家で夜明けまで眠って下さい。
そしてあなたは、私を愛しているのだから、
私のライオンよ、どうか私を愛撫して下さい!
私の神々しい君、私の主君、私の庇護者、
私のシュ・スエン、エンリルの心を喜ばせる人、
どうか私を愛撫して下さい!
蜂蜜のように甘いこの場所に、どうかあなたの手を置いて下さい!
ギシュバン(gišban)の衣(?)の上に置くように、どうかあなたの手を置いて下さい!
そしてギシュバン・シキン(gišban-šikin)の衣(?)の上にするように、どうかあなたの手で
覆ってください!小林 257-8p ll5-12
このような恋歌は非常に多く存在しており、当時の男女間の褒め言葉に当たる言葉がよくわかる。ウル第三王朝では女神官は髪を「レタスのように結い上げた」や「私の目の蜂蜜、心のレタスである彼」といった特徴的な比喩が見られる(小林 79p)。
この祭りは年頭(元旦)から第二月の間に開催されたと思われるが、ウル以外のどこでいつ行われたかは分かっていない。新アッシリアの時代になると、少なくともこの祭りに王と女神官は登場せず、物語の中だけで信仰したようだ。また、最初期は女性は奴隷が選ばれたが(当時の感性に当てはめると光栄とされていたことであったのには間違いないが、当人の気持ちは知りようがない)、ある時期からのこの祭りの相手役を務めた女神官はエン女神官という、王女がなることすらありえる最高位の女神官が務めることになった。
これはよく豊穣を祈る祭りだと言われているが、J・ボテロ曰くイシュタル神は何者の妻になったことはなく、常に愛人としての立場であった。それゆえ母性と結び付けられるべきではなく、おそらく君主の子孫を残す能力と十分な国の繁栄と維持を祝したものであり、愛のための祭りではないかと思われる。しかしイシュタル神がいくら正式に結婚していないとはいえ、数多の神と併合されたうちに母性の要素は間違いなく得ていただろうし、またバウ神など地母神、豊穣神でも形式は不明とはいえ同じような聖婚儀礼が行われていたため、豊饒を祈る意味は少なからずあったのではないかと思われる。
洪水を祈る祭り
洪水を期待する祭りがシュメルでは行われていたことが分かっており、特に晩秋の洪水は冥界に移り住んだ豊穣の神であるダム神が生み出した洪水であると民衆の間では信じられていた。寒暑の差の激しいバビロニアにおいて5月から10月は乾季で暑く、冬は雨季で寒かったためこの洪水に合わせて耕作の準備を行っていたが、度々想像以上の水量で人々の暮らしに害をもたらした。このダム神挽歌ではダム神が生み出したのが鯉の洪水だとされた(小林 8p)
神殿の祭儀
メソポタミアの祭儀は神々への奉仕とは切っても切れない関係にある。彼らは年間何千にも及ぶ家畜を神に捧げ、大きな神殿を築いて彼らの住居も補償した。メソポタミアでは神が自身の世話をさせるために人間を作ったと思われていたためであるが、神は当時の民衆にとっては主君であったため神々はつねに君主に相応しい生活をするべき、ということで神はもし人間だとしてもこれほどの財は使いきれないだろうというほどの貢ぎ物がなされた。現在覇権の神等は食事も睡眠も必要しないとされる事が多いためこのような貢ぎ物の文化はなくなってしまっているがこうした奉仕こそが毎日行われる最重要の儀式であった。
彼らにとって自身等の食料となる家畜を膨大な量神々に捧げるという行為はネガティブな意味は一切なく、犠牲を捧げるという語句を意味するシュメルのシスクルsiskur,アッカド語のニクーniqû(ボテロ 206p)は常に肯定的意味を持って用いられた。彼らは屠られた動物や貴重品が神の下へ届けられ神の需要を満たしたことを単純に喜び、犠牲するものが用意できず苦心することはあれども、犠牲獣を捧げること自体を疎むことはなかった。
毎日行われている神への奉仕の他に、神殿では王の安寧などを祈る儀式ももちろん行われていたし、戦勝のお礼を神に述べること儀式などもあった。
神殿で行われる大規模な儀式は非常に盛大に行われ、シンバルであるティギ(tigi)やアダブ(adab)、リラの一種であるバラグ(balag)やザミ(zami)といった楽器が奏でられ、香油も焚かれたが我々のイメージより凄まじく大規模な祭りだと3Lとかの単位で杉の木の香が炊かれている。そのせいでレバノン杉が…
こうした演技はそのまま曲の名称となることもあった。別種の曲名は韻律や節回しによって分類されており、例えばバルバエ(balbale)と、エルシェンマ(eršemma)という曲は二人の人物がそれぞれのパートで掛け持ちで歌を歌った。エルシェンマは悲嘆を歌ったものであり、必ず「女神官」によって演じられた(アッカド時代になると男娼も参加した)(ボテロ 226p)。
神官の収入源はほとんどが不明であるが国中と王から寄進がありとても豊かで、場合によっては金貸しや銀行の役を担っていたことが分かっている。日々神々への捧げものが山のように積み上げられていたことは分かっているためその一部が神官の収入に充てられたのかもしれない。
J・ボテロいわく、メソポタミアにおける公的祭儀の典礼書はシュメールの時代から非常に形式化し、決まり文句が非常に多いという(227p)。そのため異なる儀式でも似た表現が目立っているし、伝統を守ることが非常に重要だとされた文化であったため、見つかった典礼書には動作の一挙一動まで詳しく定められていた。しかし特性上イナンナ神は典礼書の形式も異なっていたりする。
神々の「衣」
偶像崇拝がなされていたメソポタミアではエレミヤ手紙にあるように神像は神官達によって儀式を通して清潔に保たれ、神々しさを保つため金銀財宝を身に着けさせたということが分かっている。
神が身に着けるものはリストにされている場合もあり、どうやらメソポタミアの神像は下着やショーツ、マントに加えて金銀財宝など王族が身に着けるような装備をしていた。そうしたリストの中でも有名なものにはイシュタル女神のものと前1400年頃のシリアの町カトナで見つかったの女神ニン・エガルのシュクットゥ(šukuttu「宝石箱」の意)のリストがある。このリストは見つかっているなかで4回更新されており、更新のたびに寄付によって新たな品々が追加されている。全68種の高価な品が記載されており、そのうち52個は首飾りである(ボテロ 219p)。また神々は身に着けているもの以外にも金銀財宝を保有しており、神殿の金庫の品々は神殿のものでなく神のものであるとして扱われていた。

こちらは人間の墓から見つかったものだが、金やラピスラズリから作られたネックレスは神の装備でもあったと考えられる。
このように衣食住の衣においては信者たちの寄付により成り立っていたようだ。偉大さを示す際には像そのものが大きくなりがちなイメージがあるが、メソポタミアの場合神像が財宝によって着飾られることでその偉大さを表した。
しかしそれでも『旧約聖書外伝』のエレミアの手紙によると、木や金銀でできた像は時間によってさびや腐食が進んでいたようだ。無条件に信じてもいい記述ではないが、普通に考えればおそらく神像の劣化は進んでいただろう。
しかし信者が甲斐甲斐しく世話を焼き、神像に積もった塵などは丁寧に取り除かれていたこともまた記されており、どれだけ大切にされていたかも同時に読み取れる。付喪神信仰のある日本人からすると何千年も毎日大切に扱われている神像の事を思うと何かしらは宿っているんじゃないかという気はしてくる。
神々の「食」
神々の神殿の周囲には様々な専門家が集められ、集合住宅のような場所でそれぞれ過ごしていたが、料理人だけは別で、おそらく神殿の敷地内部に居住していたと思われる。日々の儀式で使われる用語のうち実はかなりの割合が食べ物とその管理に関するものであり、神々は人の王と同じよう三食食べ、日や季節によって食べるものも異なった。
そのため神殿の貯蔵物資に関する資料やそこに至るまでの運び込まれた物資のリストは非常に多く出土している。例えばニップルにあったエンリルの神殿には毎月数百体の家畜が各地の都市や小さな村に至るまで届けられていたことが出土した記録から分かっている。これらをその後どうしたのかは分かっていない。一部は売却され神官達の収入になった可能性もある。
神官は年間を通して休むことなく、365日4食、穀物の加工品(パンに近いもの)、果物(なつめやし(デーツ)やいちじくやぶどう)、肉(牛、羊、鶏、またはその卵)、飲み物(ビール、葡萄酒や乳)が一日四食欠かすことなく神々に捧げられた。もちろん野菜や香辛料も使用され、肉そのままなどではなく調理済みのものである。特に手間がかかる煮込み料理は神々の食事として好まれた。
捧げられた食事は彼らにとって最高級のものであったので、あまりよい食事とされていなかった豚や魚はあまり捧げられてこなかった。ウルクの神殿では穀物類に焦点を当てるとどうも丸パンと呼ばれるパンが143個、揚げパンが1200個といった食事が毎日届けられており、さらに料理人は穀物の女神であるニサバ女神に対する讃歌を歌いながらパンを作る必要があった(ボテロ 210-2p)。
後半の讃歌はともかくとして、パンを毎日1000個以上作るとすると人件費だけでもかなりのものとなるはずだ。もし記述は正しければ、ウルクの神殿には年間を通して牡羊一万八千頭、牡牛720頭、仔牛360頭、子羊2580頭それに鳥類が年間900羽ほど(ボテロ 213p)が捧げられていたことになる。もちろん記述が事実とは異なる可能性はあるものの、これは身内に向けて作られた文書であり盛る必要も感じられず、おそらく事実であると思われる。また祭りの際には更に食事は豪華になったので、実質的数字はこれ以上である。一部為政者が神から恩恵を授かったときお返しとして奉納を加えることもあった。
彼らが豊かであったことは確かだが、捧げものには苦労していたこともまた確かであった。
しかしそれだけの食事がその後どうしたかを記すテキストはあまりない。旧約聖書の「ダニエル書補遺」のなかの「ベルと竜」の記述よると神殿関係者によって食べられたと記されているが事実は分からない。
神殿には祭壇が存在したが、他の宗教における祭壇のように家畜類を殺して生贄として捧げるためのものでなく、メソポタミアでは台座は神の食卓として用いられた。また食事の儀式の際にも楽器の演奏が成された。
神々の「住」
彼らは神殿を作りそこに神像を祀り、礼拝し、供物を捧げた。まず、彼らの神殿と今の教会とは全く異なる場所である。現代の教会には神はいない。神に祈りを捧げるための場所である。しかし神殿には実際に「神が住んでいる」と思われていた。
そのため神の威厳を示す役割のあった教会よりもメソポタミアの神殿は静かで落ち着いた、また王の宮殿のように洗練された生活が送れるような場であった。現に彼らの神殿はシュメール語で「家」を意味するéと呼ばれ、まさに神の住む家であった(アッカド語の場合はbîtuであるが意味は同様)。それを分かりやすいように神殿と訳しているが、逐語的に翻訳をするのであれば、~~神殿ではなく、~~神家と呼ぶべきである。
それぞれの神殿は一人の神の家として間取りも中庭があり、周囲に神官達のプライベート空間があったり、集会する部屋があったり、居室があったりとまさに一戸の宮殿であった(ボテロ 190p)。配偶神が決まっている場合は夫婦で同じ神殿内に住むこともあれば、召使の神がいる場合はその従神の神像が主神の神殿内に配置されることもあった(マルドゥク神殿の100体超は少々例外といえ)。
主要な神の大きな神殿の場合(バビロンのマルドゥク神殿や、ニップルのエンリルの神殿)には「神々の町」と呼ばれる高く厚い壁で囲まれた様々な建物が建ち並んだ町のようなものが神殿の周囲に作られた。また神殿から離れ場所にも聖堂は町のあちらこちらに立ち並んでおり、最小規模の聖堂は一部屋からなるものもあった。
人々は時に大きな神殿そのものを讃え、特別大きな神殿には名前が付くこともあった。いずれもシュメール語でありこうした名前は発見されただけでも千に近い数に及んだ。
王の重要な仕事の一つはこれらの神殿を建造、復興、維持、そして豊かな物資を供給することだった。王は自身の業績を喧伝する際に「神殿を養う者」というフレーズを頻繁に用い、自身が王としての役割を行っていることを自賛した。
こういった神殿がどの程度人々に開かれていたかは定かではないが、当時の文学の中では配置された門を礼拝するシーンが存在する(ボテロ 195-6p)。門は石でできたものがいくつか残っているが、その写真を見ればわかるように門だけでも非常に立派であり、マルドゥクの神殿にはそんな門が13もあったというのだから拝むと利益はありそうである。アッカド語でエーリブ・ビーティ(êrib bîti)「神殿に入ることを許された者」は神殿内を職務によって通行する者を強調して呼ぶ場合の名前だが、これは特権としての扱いを受けており、それほど多くないと思われる。

バビロンの有名なイシュタル門の再現
そうした神々の家のなかで現在遺跡として残っている有名なものはやはりジックラト、ジッグッラット/ジックラトゥ(ziqqurratu)であろう。アッカド語で「高い頂」を意味し、大きな神殿集合体にのみ築かれ、場合によっては複数築かれた。主要の建物に隣接して建てられ、高さ30メートルほどの階段状の塔である場合が多かった。
しかしバベルの塔として名高いマルドゥク神殿のジックラトゥは高さが90メートルもあった事で知られている。構造としては上に行くほど小さくなる段が3~7積み重ねられ、傾斜する通路または連絡階段を利用することで実際に登ることができ、頂部には祠があった。しかし、何の目的で築かれた物であるかは一切分かっていない。
ジックラトが築かれたのは前三千年紀の末以降であったが、どこから伝わったのかも一切分かっていない。なぜ彼らは天にも届きそうな塔を作ったのだろうか?少なくとも天体観測ではなかったことは分かっている。またジックラト自体にも名前がつけられることもあった。
ちなみに人々の住居に関しては、ウバイド文化期から続く慣習として建造物の土台に建造物の無事を祈って碑文を埋める習慣があり、これはなんとアケメネス朝にまで続いた。日本で塩を撒いたりするようなものだろうか。
個人の祭儀
自分のための儀式
不幸な定めを変えてほしいという願望が個人的な礼拝によって願われることが多い。個人的な儀式で行われる祈りの動作には鼻の前に手を置く動作(シュメル語でキリ・シュ・ガル)と手を高く挙げる動作があった。また神に対して訴えを手紙で書くこともあった。
メソポタミアの人々が自身の不幸を取り除いてもらえるように行う儀式があった、松島英子訳の「最古の宗教」ではそれら人間のための儀式を「秘跡」と呼んだ(ボテロ 189p)。
シュメル人の目が大きい像を見たことがあるだろうか?あれは祈願者像あるいは礼拝者像といって立像と裸像があり、男性はカウナケスという腰衣を巻いており、女性は全身を衣服に身を包んでいる。日常の仕事や用事で神殿に籠って祈ってばかりはいられない人々は自分がいけない間はせめて像に祈ってもらおうと作ったもので、そのため表情はどれも落ち着いており、神への敬意と服従を示すために両手は胸の前で組まれている。像は時に名前が祈祷文と共に刻まれ、神殿発掘の際に大量に見つかっており、シュメル美術の代表となっている(小林 145p)。
葬送儀礼
メソポタミアにおいては葬送儀礼は非常に重要なものであった。詳しくはメソポタミアの世界観に記しているが正しく埋葬されなかった死人は冥界に辿り着くことができず、現世を彷徨う亡霊になると考えられていた。
行き場を失った亡霊(エツィンム)は一目のない場所をうろつき、近づいた人間を誰彼構わず襲い掛かったと考えられた。また死後人々は転生することもなく永遠に冥界で半睡眠状態になると考えられていたがその状態であっても人には栄養が多少は必要であると考えられた。
生き残った家族は家長の責任のもと死者の供養は義務であり、時々墓の上から少量の水と食料を備える必要があり、毎月の末、つまり月が昇らない晩には(マリでは満月にも)キスプkispu(アッカド語で「食物を分かち合う)と呼ばれる儀式をする必要があった。その儀式では食事の席に死んだ親や祖先を招待し、供養したが、何世代上まで供養するかは記憶に委ねられており、一般に三世代以上遡られる事は少なかった。
それより前になると高名な人物でもなければそのような供養をされることはなかった。死者に飲食物を与える習慣はシュメル初期王朝時代(前三千年紀中葉)には確認されており、家族の死霊は適切に扱えば子孫を守ってくれると考えられていた。この風習はヒッタイトにも受け継がれ、死者には定期的に飲食が供せられた。
反対の出産儀礼はほとんど知られていない。
主要参考文献
小林登志子『シュメルー人類最古の文明』中央公論新社、2005
小泉龍人『都市の起源ー古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社、2016
月本昭男『この世界の成り立ちについてー太古の文書を読む』ぷねうま社、2014
ボテロ・ジャン、松島英子訳『最古の宗教ー古代メソポタミア』(りぶらりあ選書)法政大学出版局、2001
前田徹『初期メソポタミア史の研究』早稲田大学出版部、2017