このページはメソポタミアのファンタジー史を記す上で、インターネットで調べるにはあまりに乱雑で、情報の抜け落ちているメソポタミア史を簡易的に一つのページにまとめたものである。私自身が歴史も地理も独学であるため専門家の方々が記された書籍には精度も説明の明瞭さも大きく劣ることは自覚しているが、日本のインターネットのメソポタミアに関する情報量は私が想像していたより遥かに少なく、長らく更新もされていない。そのため、ファンタジーに興味のない方も歴史を手軽に知りたければ是非読んで頂ければ嬉しい。
メソポタミア文明といえば人文科学といわれるような領域に関しては、ほとんど起源であったり、そうでなくてもそれに近しいものである。「文明のゆりかご」とは言い得て妙であるといえる。このページはそうした発明にはあまり触れずにあくまで歴史のみ(それでもかなりの文字数になってしまった)に言及している。要所要所にリンクを挟んでいるのでよければそこから飛んで文化の側面にも触れていただければと思う。
目次
地理
まずメソポタミアの地理を見てみよう。歴史の教科書では「肥沃な三日月地帯」という呼称で紹介される。この名称自体はオリエント世界のかなり広い範囲を指し、まぁ実際当時は今以上にかなり肥沃であったようだ。しかし一口に「肥沃な三日月地帯」といってもメソポタミアの地は少々特殊な事情がある。
メソポタミアはどうやら地質学的な観点ではそれほど古くない、むしろ新しい部類に属する土地であるらしい。メソポタミアとは端的にはティグリス河とユーフラテス河の間の地を指すわけだが、この地は1万2000年前のヨーロッパ最後の氷河期と乾燥期を経てその地に姿を現したと思われる。
姿を現す、というのは現在のメソポタミアの地は当初一本の巨大な河が流れており、その河がヨーロッパの気候変動により水位や規模が縮小しティグリス川とユーフラテス川に分かれて出来たのが「メソポタミアの大地」である。元は川底であるというのがメソポタミアが肥沃であった理由であり、その面でもかなり特殊な立地であることは間違いないであろう。
ティグリス河とユーフラテス河の間は現在も並みの国がすっぽり入ってしまうほどの面積があるのだから、元が一本の河であったという事実を見てもあまりしっくりは来ない。そして古代の偉大な大河跡地が沼地となり、「文明のゆりかご」となったというわけだ。
現在のイラクでは、国の中心部がその地帯に当たるが、今なお乾燥した中東部においてその湿地帯は農業に適した土地であるとして人口のほとんどが集中している。定期的な洪水も土壌の進化に一役買っていた。しかしどれだけ豊かだろうと乾燥地帯であることには変わりないので年間降水量は150ミリメートルと少なく(大体日本の10分の1程度という認識でいい)、またバビロニア地方の夏はかなり暑い。現在では八月の昼間は五十度にも達するため天水農業(雨水のみに頼った農業)は不可能だったと思われる。
メソポタミアはギリシア語で「河の間の土地」を意味し、後世になって使われるようになった呼称である。当時のメソポタミア文明の人々はその両河の間の土地を指して特別な呼称をつけることはなかったようだ。
メソポタミアは大きく二つの地名に分けられて、現在のイラク共和国の首都バグダートを境に北部がギリシア語で「アッシュルの土地」を意味するアッシリア、南部はギリシア語で「バビロンの土地」を意味するバビロニアと呼ばれる。そしてバビロニアを更にニップルという都市を境に北部をアッカド、南部をシュメルという。覚えやすいよう後に可能な限りキャラ付けして紹介するため、現時点で覚えていただく必要はないのでご安心ください。
さて、ようやく人が築いた歴史に入るわけであるが、よく考えてみると今までが川底の土地であったのだから人が住んでいたはずもない。メソポタミア文明の担い手はあちこちからメソポタミアの湿地帯に乗り込んできた多様な民族である。その後文明が発展するにつれ更に新たな民族が加わり住んでいる民族と混ざる。その際場合によってはいざこざが起き王権が移り変わることもある。メソポタミア文明の歴史は基本的にはその連続である。
メソポタミアに多くの民族が移り住んだ理由として肥沃であることは前提としてペルシャ湾や二つの大河が西アジアの交通の要であるから、大地が開けているからなど考えうる予想を上げればきりがない。多くの理由があったのだろう、としか私には言えない。しかしそのように多くの民族が集まって都市を作れるような場所だったからこそ、守りは薄く、その歴史は常に異民族の侵入と共にあり、支配民族の移り変わりの激しい土地であった。
ともかくこの土地に誕生した人類は地質学的にいないという事になり、メソポタミアは先住民によってではなくどこかからやってきた人達に築かれたという事になる。
我々が観測できる最古の痕跡は前八千年頃のものである。ザグロス山脈の山麓地帯で雨水に頼る原始農耕(天水農耕)が始まっていたことが分かっている(小林 15p)。また一部遺跡から前8000年頃に造られたであろう出土品も存在するが、それがメソポタミアの地に住んだ人々によって作られたのか、あるいはどこかで作られ持ち込まれたのかは分かっていない。実際にいつから住み始めたのかを知る術はないが、前8000年頃には住んでいたということは真実である可能性が高い。
最初はメソポタミア南部のバビロニアに人が集まった。その中でもバビロニア北部を代表するようになったのがセム語系の民族であるアッカド人、バビロニア南部を代表するようになったのがシュメール人ということだ。さてこれらの民族がどこから来たのかという問題に関しては、文字がない時代の出来事であるためほとんど分からない。文字ができてから彼らの間で伝わっていた口承の物語にどこから来たのかを示唆するものがあり、それを参考にすることもできるが、かなり脚色されていることは明らかであるため、あくまで参考である。
殊更にシュメル人がどこから来たのか分からないと強調されているが、文字がないから当たり前であるし恐らく我々が歴史を観測し始めた段階ではシュメル人は単一の民族ではなく、シュメルの地に住むうちに文化も民族も混ざり合った人々を我々が勝手に総称してシュメル人と呼んでいるだけであり、彼らの出自に関して夢を見てると肩透かしを食らうことになる。アッカド人に関しても同様な事が言える。しかし今後登場する民族については、文字ができてから登場した人々であればある程度故郷を知ることは可能である。
ちなみにバビロニアの地で始まったメソポタミアの歴史であるが終焉はバビロニアで興った王国が迎える、という形になる。メソポタミア北部のアッシリア地方については注目すべき場面が来たらそこでドドンッ!!と紹介するので、それまではとりあえずバビロニアの地で興った文明だけオーケーである。
ハッスーナ文化、サマッラ文化、ジャルモ文化、ハラフ文化 bc7000年紀末-bc6000年紀前半
日本でいうところの縄文時代に当たる。先史時代に興った諸文化であり、名前はそれぞれメソポタミアの南部の痕跡が見つかった遺跡の名前である。シュメルに直接連続していると思われるサマッラ文化期の地においては既に灌漑設備が発見されている。こうした設備によって乾燥地帯でも安定して機能し大麦の栽培などが行われ、また大事業であるため特定の箇所に人々が集まった。これが続くウバイド文化期への布石となっており、ウバイド文化の成立には大規模な事業によって集められた人々が一役買っているのだと推測されている。
ハッスーナ文化やサマッラ文化やハラフ文化などはほとんど分かっておらず、遺跡と美術品などから判断するしかない。もし興味があるのであれば博物館のHPなどで検索していただくと詳しい解説が載っているのでお勧めだ。というかネットにはそれ以外に情報がほぼない。文字資料がない時代のことはやはりよく分からないが、更なる発掘を期待したい。
ウバイド文化期 bc5000-bc3500
メソポタミア南部に最初に人々が固まって定住し始めたのは前五千年頃であった。ウバイド文化期と呼ばれる時代である。ウバイドはウル市の西方六kmに位置する遺跡名でありここから名が取られている。ウバイド、エリドゥ(都市神エンキの治める有名な都市)からはウバイド文化を代表する茶褐色の文様を持つ土器が出土している。ウバイド時代には灌漑農耕が大麦の栽培によって安定した収穫を得ることが可能となっていた。ウバイドでは石器や装飾品や土製の人形が見つかっている。
この時期は遺跡があるのだから建造物ももちろん存在するのだがまだ都市とは呼べるものではなかった。世の中には都市を都市たらしめる基準を思考なさっている学者先生が多数いらっしゃることをメソポタミアについて調べ始めてから初めて知ったが、城壁の有無であったり、神殿の有無などが基準とされ、ともかくこの時期の建造物群が都市の基準を満たしているとみなされることはほとんどない。
実際に都市ができるのはウルク文化期からである。ウバイド文化期の後期に、町の成立と交易が始まり、その活気に集まった人々によって始まったのがウルク文化期であると推測される。
なおウバイド文化を築いた存在がシュメル人なのか、セム人なのか、はたまた第三の民族、仮称ウバイド人なのかという点は謎であるとされているが、そもそもシュメル人がどういう存在か分かっていない以上、謎の存在を謎の存在と同定できないことは当然である。シュメル学者であるS・N・クレーマーはシュメル人によって征服されたウバイド人がインダス文明誕生に貢献したという大胆な仮説を出している(小林 16p)が、確証はない。
これはバビロニア南部の話だから担い手はシュメール人であるはずだが、このような説が出た理由としてはウバイド人の残したイメージがシュメール人に比べて長頭だったり、ウバイド文化の地名がシュメル語ではないといったことが挙げられる。こうして第三の人種として「ウバイド人」が存在したのではないかと言われている。
こんな風に書くとウバイド人の実在に興味が湧いてしまうかもしれないが、何をもってウバイド人とするのかの定義はないので、ウバイド文化の時代に住んでいたのがウバイド人とするならウバイド人の実在は即座に証明できてしまうし。もし実在の議論をするなら、ウバイド人が実在したのかという答えのない議論ではなく、バビロニア南部でシュメール語が使用されるまえに優位な民族がいたのかどうかの議論が建設的でいいだろう。
私の考えであるが、シュメル人と我々が呼称する民族は確かに何処からか訪れているが、すぐさまウバイト文化を築いた人々と同化し、それら混合民族を我々はシュメル人と呼んでいるのではないかと思っている。
魅力的ではあるが正直調べるのにかなり時間を要する。ネットで調べようとすると日本に来た説も出てくるので余計である。

source=https://www.flickr.com/photos/156915032@N07/46728788505/
ウルク都市期 bc3500-bc3100
ウバイド文化期によって積み重ねられてきた発展が花開くのが、ウルク都市期(あるいはウルク文化期、ウルク期)である。前4000年頃にウバイド文化の集落達が都市的な性格を持ち始め、前3300年頃にメソポタミアの最南部シュメール地方でウルクという世界最古の都市が誕生した担い手はシュメル人である。この時期に大規模な交易に記録が必要となり、文字の原型となるトークン(印)が発明された。またメソポタミアの記述ではこのころから学校のような教育施設があったようだが、発掘されたのは古バビロニア時代以降のもののみである。学校は役人の教育機関であった。
美術品
ウルク出土の大杯
円筒印章が初めて作られた時期でもある。
ジュムデト・ナスル期 bc3100-bc2900
バビロニア全域に都市文明が広まる時期である。
初期王朝時代 bc2900-bc2335
シュメルの有力都市国家が分立して交易路や領土問題で争った時期である。サルゴンによる統一前であるから単に先サルゴン時代とも呼ばれる。いくつもの都市国家が興り、覇を競って争った。わけではなくそれぞれの都市の王権は優位に立とうと争いを行っていただけで、多くの都市国家は天下統一といった目標を掲げることはなかった。
しかし野心猛き男はどこにでもいるものでウルクのエンシャクシュアンナという王がシュメルの統一に向け名乗りを上げており、サルゴン以前から都市国家の統一を目指していることがわかる。
さらにウンマ市からウルク市に本拠を移したルガルザゲシ王という人物もまた、シュメル統一を目指した男の一人であった。彼は多くの都市を下した後、シュメル統一を一時的には築いたが、バビロニア北部を統一したアッカドのサルゴン王(前2334-前2279)がルガルザゲシ王を打倒し、アッカド王朝時代に至った。そこら辺の物語については『サルゴン王物語』に記されている。
この時代の都市国家の興亡を辿る資料の一つとして『シュメル王朝表』が利用されるが、この資料にあるように王権が都市間で受け継がれたといった事実はなく、実際にはそれぞれの都市国家がそれぞれの王権を樹立していた。『シュメル王朝表』では王権の正当性のためにそうした形式が取られたようだ。
この時代の概要は大雑把にはこれだけで十分である。もちろん中国の春秋戦国時代然り、いくつもの王朝が入り乱れる時代については語るべき内容は非常に多い。もっと情報が多ければ日本にも初期王朝時代マニアも出てきそうなコンテンツ力を秘めているが、私も情報を欲しがっている側の人間なのでここでは私の記すことのできるかなり浅い情報だけ留めておく。日本に例えるとこの記述の情報量は邪馬台国って国が昔あって強かったらしいよ、くらいのものなのであくまで最低限の情報量であることは推して量っていただきたい。
以下は勢力図から離れて、人々の暮らしがどのようなものであったかに焦点を当てる。
この時代のシュメルの諸都市では基本的に耕地の私有は認められておらず、奴隷と家宅と周りの菜園のみが家族財産として認められた。また、外国と交易を行うような商人は王族に仕えるもののみであり、個人で海外と交易を行うような商人は表れなかった。この価値観はウル第三王朝の時代まで続き、王以外が私的に財産を持つようになるのは古バビロニア時代以降のことであった。
また、税制は馴染み深い人頭税や地租ではなく、大規模耕地などの組織に紐づけられるタイプの税であった。人々は大麦や土地支給に対する賦役として灌漑施設などの維持が義務付けられた。人々は国から「この土地と育てる植物をあげるからできた作物ちょうだい、あと仕事手伝って!」という形だ。
あと、特別枠としてこの時代のラガシュ市を紹介したい。私が記事を記していく中で特別ラガシュ市の王が多く登場したためであるが、我ながらかなり味気ない文章に仕上がった自信があるため必要な際に読んで頂ければありがたい。
ラガシュ市はその形態自体がかなり特殊であるため土地自体の特色についてはこちらを。
前二五〇〇年頃、ラガシュにウルナンシェ王を初代とする六代にわたる世襲王朝が成立した。
ウルナンシェ王朝、あるいはラガシュ第一王朝と呼ばれる王朝である。アクルガル、エアンナトゥム、エンアンナトゥム一世(前王にアが加わってるよ)、エンメテナ、そしてエンアンナトゥム二世の六代でラガシュ王朝は終焉した。第三代から第五代まではラガシュ市はかなり有力で、あのウンマ市とかなり長期の争いが続けられていた事が分かっている。ウンマ市というのはサルゴンに天下を奪われたあのルガルザゲシ王が生まれた都市である。しかしウンマ市は初期王朝時代以降あまり目立った動きはないため(というかある時期から廃棄されるため)、もう忘れていただいてかまわない。
さて直接的なウルナンシェ王朝が途絶えた理由は分かっていないが、ウルナンシェ王朝が途絶えた後エンエンタルジ、ルガルアンダ父子がラガシュに地を支配し、その後更にその二人はウルイニムギナ(ウルカギナ)に王位を奪われていたことが分かっている。その後はウルイニムギナがルガルザゲシ王に屈服し、初期王朝時代のラガシュ市の隆盛はここで終わる(小林24p)。
そしてこの後、一度は征服されたラガシュであったが、アッカド王朝後半の混乱期に自立し、グデア王の時代を中心に再び繁栄した。ラガシュで二番目にできた王朝であったためラガシュ第二王朝と呼ばれたが、グデア王が建国したわけでもないのにグデア王朝と呼ばれるほどグデア王は有名で、私は彼を紹介するためにラガシュ市の歴史を紹介したといっても過言ではない。
グデア王はアッカド王朝時代の人物だが、ラガシュ市の歴史と連続していないと分かりにくいと感じたのでまとめて紹介させていただいた。天下統一こそしていないが彼の治世は芸術、文化の面で後世に非常に多くの影響を与えており、彼自身に関する作品も多く出土している。このサイトは性質上芸術作品に触れることが多いが、あまりにもグデア王が登場するため彼が一時代を築いた王のように感じてしまうほどだ。もちろん有力な王であったことには間違いないが、おそらくこのサイトの登場回数に限れば一位なのではなかろうか。
また毎時代攻めてくる、エラム人のスーサ市を都としてエラム王国がイラン高原南西部に建ちにできるのも前3000年代と、この時代の出来事であった。
有名人
エンメテナ ウルナンシェ王朝の前二四〇〇年頃の王である。エンメテナ王治世の記録には後代『ハンムラビ法典』に繋がる「徳政令」最古の例があった。
ルガルザゲシ王 割と文学作品に登場する。『サルゴン王物語』など。天下支配したのに殺されて乗っ取られてしまった信長ポジションの人。
アッカド王朝時代 bc2334-bc2154
シュメル人の都市国家の分立状態を終わらせ、メソポタミア南部、バビロニアにはじめて統一をもたらしたのはアッカド王朝の初代サルゴン王(前2334-2279)であった。バビロニア南部シュメルの地を統一したルガルザゲシ王を、バビロニア北部アッカドの地を統一したサルゴン王が奇襲することで統一がなされた形だ。統一難易度はシュメルの方が高かったであろうからサルゴン王は上手くやった部類に入るであろう。
しかしサルゴン王は決して無能の人物ではなく、バビロニア統一を成したのは56年もの長い治世(諸説あり)の末期のことであったのに、軍隊の結成や交易の掌握など統一事業を進めてみせ、アッカド王朝は11代約一八〇年間も続いた。彼の覇業はバビロニアにおいてもかなり華々しく伝えられ、特に古バビロニア時代以降は真の英雄として語り継がれた。
肝心の都であるアッカド市はまだ発掘されておらず、アッカドからの発掘は存在しないためアッカド王朝時代の歴史は古バビロニア時代の写本より伝わっている。
さて今までシュメルの地を中心に刻まれていたメソポタミア文明の表舞台に姿を現しだしたアッカドの人々であるが、彼らはいったいどのような人々なのだろうか。彼らは東方セム語族に属し、歴史上始めてセム語系を用いた人々である。西アジアではアラブ世界で話されるアラビア語やイスラエルで話されるヘブライ語もセム語系であり、伝播しやすい優れた言語体系を持っていたことがわかる。もちろんそれだけが理由ではないがこれ以降徐々にメソポタミアではシュメル語は下火になり、アッカド語が主流になる。
アッカド人はシュメル人同様メソポタミアに記述の文化が登場する以前から存在していた。そのためどこから来たのかまでは分からないが少なくとも前3000年頃にはメソポタミア文明に訪れていたことは分かっている。
またアッカド人とシュメル人の関係について、シュメル人はサルゴン王登場まではどちらかといえば下に見ていたと見受けられるが、アッカド人は文化的な都市生活を営んでおり、都市至上主義的なシュメル人にはそれほど差別されなかった。この時代のシュメル人等は都市神という概念からも分かるように都市に過ごしている、ということが誇りであったようで、都市に住んでいなかった遊牧民等をかなり見下していたことがわかる。といってもその遊牧民に何度も敗れることになるのだが。
アッカド人はシュメル人とほぼパンテオンを共有しており、呼称は違えど同じ属性を持つ神は同じ地位にいた。太陽と月の神は大気の神より下の地位で…といった序列がそのまま使用されているということだ。サルゴン王はシュメルのイナンナ神にあたるイシュタル神のおかげで出世したのだと『サルゴン王伝説』に書かれている。
サルゴン王の時代ではまだ地中海からペルシア湾にかけての広大な土地全てを完全に支配したといったわけでなく、西はマリ、東はエラムまでであった。しかし30年後第四代ナラム・シンはその偉業を成し遂げた。
ナラム・シン王は王子、王女を自らの支配の強化のために諸都市の支配者として派遣し、「四方世界の王」を名乗った。そして遂には神まで名乗るようになるのだが、そこら辺は長くなるので別の記事へ。
しかし武力で拡大した領土は維持が難しく、次代の王の時代急激に衰退する。これはアッカド王朝のみならずメソポタミアでは今後頻繁に起こる出来事である。
第五代シャル・カリ・シャリ王(前2217-2193年頃)の治世には北東の山岳地方からグディ人に侵入され衰退した。グディ人の襲来は凄まじく洪水のようであったという。また東のエラム人、西のマルトゥ人も攻め込み、さらにはシュメル諸都市が離反し、アッカド王朝の第十一代までの王の名は文献が残っているが、シャル・カリ・シャリ王以降の時代は無政府状態で誰が王であるか分からない状態であったという(小林26p)。
それにしてもさっそく遊牧民に敗れている(この王朝はアッカド人のものだから「それ見たことか」とはならないが)。しかしこうして改めて古の遊牧民に視線を合わせると、彼らの強さに何度も驚くことになる。Civ6で都市国家が蛮族に滅ぼされるのは何もおかしなことではなかったんだなと思う。
ウンマ市によって滅ぼされたラガシュ市が復活し、グデア王の時代(前二二世紀頃)を中心に繁栄するのは、このようにアッカド王朝がグディ人の侵攻で荒れている最中のことであった。
これが初代の統一国家の顛末である。各所から攻められつつも領土を拡大した結果長持ちせず、また混乱を招いてしまった。しかし彼らが広大な土地を治めたという事実は決して変わるものでもなく、サルゴンやナラム・シンにはメソポタミアに限らず現代でも時々好んでいる人物を見かけることができる。
なおこの時代を境目としてアッカド語は共通言語として残り続け、新アッシリア時代(前1000-前609年)にアラム語にとって代わられるまで使用され続けることとなる。
ちなみにシュメル人達も大人しくしていたわけではない。サルゴン王の時代は従っていたものの第二代王リムシュ王(前2278-2270)の時代になるとウル市のカク王を指導者として反旗を翻し、シュメルの地を取り返そうとした。しかしリムシュ王は見事にカク王を捕らえ、シュメル諸都市を破壊するなどして治世の安定化に成功した。このように二代王リムシュは偉大な王の後の仕事を大きな失敗もなくこなしていたのだが、後代の歴史書では自身の双生児である第三代マニシュトゥシュ王(前2269-2255年)と共に存在を無視され、サルゴン王の子がナラム・シン王になっていたり非常にかわいそうな王である。というよりサルゴン王とナラム・シンの存在感が強すぎるのが悪い。
ナラム・シン王が即位してすぐの時にもシュメルの連合軍による大反乱があったが、それをナラム・シンは一年で抑えたと記述されている(メソポタミア全史60p)。
アッカド王朝は外交としてインダス川流域や、オマーン、バハレーンやファイラカ諸島周辺と関わりがあった。特にバハレーンとファイラカ諸島周辺は当時ティルムン(ディルムン)とも呼ばれ、物語内では楽園として扱われた土地であるが、実際に銅の交易拠点だったようだ。ラガシュやウルが持っていた交易権もアッカドに一元化された。
有名人
サルゴン王 前2334-前2279。 言わずと知れたメソポタミアで最も有名な人物の一人。治世は56年も続き、その間にウルク襲撃、シュメル統一という覇業を成した。サルゴンは最初にバビロニアを統一し国家を建設したという功業から国外からも英雄として称えられ、古バビロニア時代以降、かなり美化して伝えられるようになった。戦争を描いた粘土板が事実であるとするなら、彼は槍中心だったシュメル人に対し、短弓を用いたことで勝利したようだ。妻はタシュルルトゥム。
エンへドゥアンナ王女 サルゴンの娘であり、非常に学識高く、アッカド人ながらシュメル語を使いこなし史上最古のバイリンガルであると思われる(小林25p)。傾向として統一を成し遂げるような強大な王が初代にいると、二代目から知的になることが多いように感じる。といってもアッカド人は男尊女卑的傾向がありエンヘドゥアンナ王女は王位を継げなかったのだが。名前の意味はシュメル語で「天において讃えられる女主人」である。彼女は『シュメル神殿讃歌集』の編纂に加え、『イナンナ女神讃歌』を制作し、かなりの才能を持っていたことがわかる。彼女はサルゴン王の政策によってウルの都市神ナンナ神(シン神)を祀る女神官となった。王女がナンナを祀る女神官になる伝統は、新バビロニア王国最後のナボニドス王(前555-539年)のエンニガルディンナ王女まで約1800年も続いた。彼女はウルの都市神に仕える身としてウルに住まうこともあったのだが、シュメル人のアッカド人に対する反感から追い出されることがあったようだ(メソポタミア全史57p)。
ナラム・シン王 リムシュ王の子。武勇に長け、その37年間の治世の間にサルゴン王以上に遠征を繰り返しアッカド王朝の版図を最大にした。特に神王について書いたこの記事が詳しい。
グデア王 ラガシュ市の王。彼のグデア王首像は芸術作品として名が知れており、検索したらデッサンなどがサジェスト候補に挙がる。ラガシュ第二王朝自体は続くウル第三王朝時代に再び支配され終わりを迎える。
ウル第三王朝時代 bc2112-bc2004
五代約百年間続くアッカド王朝に次ぐ王朝で、シュメル人が初めてバビロニアを統一した国家である。ウルク市のウトゥへガル王がアッカド王朝を乗っ取ったグディ人からシュメルを解放した際、彼の将軍であるウルナンム(前2112-2095年頃)がウル第三王朝を興したとされているが、諸説ある。ウル第三王朝はウル市に都を置いた三番目の王朝の意味であるが、ウルもアッカド王朝に支配される前は有力だった都市国家で「ウル王墓」などの遺跡はこの時代以前に作られたものである。
アッカド王朝で確立された中央集権を更に発展させ、かなり繁栄はしたのだが、前2004年頃東方からエラムに侵入されて滅亡しててしまう。そしてこれが歴史上にシュメル人が姿を現す最後である。
ウル第三王朝は領土拡大に邁進したアッカド王朝と異なり、第二代シュルギ王は首都ウルから最高神エンリルの聖都ニップルへ至る道を引いたり、内政においても次々と新政策を打ち出し、現代にも残っているものも数多く存在する。異なる都市ごとを結ぶ国道が初めて生まれたのもこの時代であった(メソポタミア全史72p)。初代ウルナンム王も街道作りを行っていたが、シュルギ王はさらに約10km毎に宿駅を設け、そばに庭園も設け旅人の安全を保障した。これはアケメネス朝ペルシアの有名な「王の道」に約1600年先行している。
シュルギ王はさらに治世二十年目になると常備軍を作っており、さらにこのころから度量衡(計量の基準)の統一、大規模な定期的な検地などを行っている。検地自体は古くから行われていたが、ウル第三王朝から経済の支配は更に厳格化された。後の世に伝わるような政策を生み出した王は数多くいるが彼はその数が飛びぬけて多いため日本だと転生者説とかが囁かれてそうなタイプの王である。
第三代アマル・シン王(前2046-2038)も領土拡大しており、あのエラム人のスーサ市も支配下に置いている。しかし治世末期に内紛が始まってしまいアマル・シンは息子シュ・シンとの権力争いに突入し、妻のアビ・シムティにも裏切られわずか6年で治世が終了する。後の世にはアマル・シンは無能であったと語られてしまうようになる。
第五代イッビ・シン王(前2028-2004年)の治世になると、東方のエラム人、西方のアムル人の侵攻、しかも飢饉まで起きた。この時代には土壌の塩化により大麦の収穫が激減していた。そこでイッビ・シンは大麦の購入をイシュビ・エラという将軍に命じたが、イシュビ・エラは与えられた費用の半分ほどの麦しか送らないなど侮辱的な態度を繰り返し、イッビ・シンを欺いてイシン市に王朝を樹立することに成功する。イッビ・シンの治世24年目にエラムがウルを侵攻しイッビ・シンは捕虜としてエラムに連れ去られウル第三王朝は滅亡した。
滅亡後まもなく、『ウル市滅亡哀歌』などウルの都市荒廃を嘆く歌が描かれた。兵ども、といった風情だろうか。
この後シュメル人は時代から姿を消す。といってももちろん民族が突然いなくなるようなことはあるわけなく、実際には民族的独立を失い、混ざり合ったというのが事実である。言語もアッカド語が公用語になり、シュメル語を常用語として用いられることはなくなる。しかし以降もシュメル語は教養として残り続け、学校で教えられた後が残っている。たまに「シュメル人はどこに消えたのか?」みたいな煽りを見るが、消えていないし、混ざり合っただけでシュメル人が「アッカド語の名前の人が多数だからそちらに合わせよう」と考えたとしたら私たちには彼らの人種がシュメル人であったと分かることは多くの場合ないのだから。
有名人
ウルナンム王 現在分かっている限り最古の法典である『ウルナンム法典』の発布や、公共建造物の建設によって「正義の牧人」と讃えられた。一般に神殿の修復が業績とされており、王の義務の一つでもあったのだが、それにしても彼はニップル、ウルク、エリドゥなどの大都市の神殿やジッグラトを次々修復している。
第二代シュルギ王(前2094-2047)48年もの間王朝を治め発展させた優れた君主として有名である(メソポタミア全史64p)。妻が八人、息子は17人、娘は13人少なくともおり、またメソポタミアの歴史全てを通しても最も情報が多く見つかっているのはこの王である。またシュルギ王の后の一人の子守歌が見つかっている(シュメル71p)。
ウルナンム王朝時代から「王讃歌」が作られるようになったことがその理由の一つとも考えられており、彼の「王讃歌」はなんと30種類以上も見つかっている。讃歌の中では父はルガルバンダ神、母はニンスン女神、ギルガメシュ神は兄弟と記しており、自身を神と同等の存在だと考えていたようだ。そして彼は実際に存命中に神格化された。
讃歌の内容は自身が学校でシュメル語とアッカド語の書記術が一番であることの自慢(実際古代メソポタミアにおいて識字ができる王は数えるほどしかおらず秀才であることは分かる)や、戦争の際には先頭に立ち、槍を手に投石機を操作したことの自慢などである。
ここまで書くとすごいナルシストっぽくなってしまうが、古代の王など皆多かれ少なかれそのような側面を持ち合わせているものである。事実彼はナラム・シン王の名乗った「四方世界の王」も名乗っていたことが分かっている。ここからは彼の有能エピソードをまとめていく。
彼は父ウルナンムが戦死したため、まだ若い時期に突然即位することとなった王であった。当時の王は第三代の王を見れば分かるように無能であれば即座に部下に乗っ取られるような時代であったが、彼は多くの神殿の修復するなどして支配を固め、死ぬまで乗っ取られるようなことはなかった。また、西暦がなく年を数えるということをしなかった時代において彼は年名という形で、重要事件をその年の名前にした。そのため彼の治世48年の年名は治世4年目を除いて全てわかっている。例えば治世23年の年名は「王シュルギ神-エンリル神が至高の力を授与した年」となっており、彼が存命中に神格化されたことがわかる。このように年名を利用して彼の治世で行われた行事を読み解くことができる。
フリ人の都市をシュルギは何度も遠征し、カラハル、シムシル、ハルシ等を征服したと年名に築いている。いずれもフリ人の都市であり次々と征服しているかのように記述されている。しかし同じ年を二度征服していたり、実際には苦戦続きだったようだ。
またシュルギ王の時代には、マルトゥ人からの侵入の勢いが増したようでシュルギ王が現在のバグダード北方80kmのあたりに長城を築いている。これは万里の長城より前の建造物である(メソポタミア全史78p)。
シュルギは結局晩年まで遠征を繰り返す事となる。死後彼は星になったのだと称えられ、古バビロニア時代の文書には「シュルギ神の星」という星が見られる。彼の記述に文を割きすぎた気もするが、なんというか歴史モノのなろう小説の主人公っぽさがあって好きだったため書いてしまった。
建造物
プリズシュ・ダガン(現代名ドレヘム)
シュルギ王の時代、周辺諸国から大量の家畜が定期的に送られたがそれらを一時的に保管するための施設であり、山羊や羊、牛などが、一年間に6~8万頭取り扱われていた。また熊なども仕入れられていたが、芸を仕込むために道化師の手に渡っていたようだ。この時に馬も仕入れられ、いずれ戦場に導入されてゆく時代の兆しとなっていた。