このページはメソポタミアの政治と宗教の親和性について記したものである。
目次
神権政治
メソポタミアは神権政治が採用されていたが、土地の支配民族が複数回入れ替わるという特性はその制度にも影響を及ぼしており、少々複雑である。世界史の教科書などにおいて神権政治の解説にメソポタミアが使用される事もあるが、一般的な神権政治の定義からメソポタミアの神権政治が外れている事は多い。
メソポタミアの王権制度は前二千年紀の半ば頃を境に大きく変化している。そのためそれ以前それ以後で分けて考える必要がある。
かなり初期の、前二千年紀以前のシュメルでは世襲制のような血縁的な出自で王位継承者を決める方法は忌避されていた。シュメル人は王権の源泉とその正統性を、神に付与されたものと考えており血縁そのものが神に選ばれたとするような考えはなかった。そもそもシュメルでは氏族制自体があまり発達していなかった。
シュメル社会において都市の王はその正統性は都市神に選ばれることに依存した。シュメル人のアイデンティティは民族ではなく都市にあり、都市神とは独立・自尊の象徴であった。
しかし前二千年紀になって周辺民族であったマルトゥが力をつけた際、氏族制が社会制度として受けいられるようになった。したがってウルク期に成立した都市に氏族制を想定する必要はない。まずウルク期に始まるシュメル都市は、都市神が都市全体の主であり、神官が代わって都市を統治している祭司王(priest-king)制であるという見方があったが、メソポタミアの初期段階においては祭司王による神権政治は確証が取れていない(前田28p)。
神は地上を支配するのに相応しい人間を選ぶだけだと考えられていた。メソポタミアにおいては神は卓越した存在であり、人の事を気に留めることなどない。他文明の神権政治でいうような「王は神の政治的判断を代わりに伝える」概念はなく、王はただ神のために政治を行うのであった。
また神権政治の特徴として挙げられることがある神が全人全土の主であるという考えはシュメルにはなかった。
キシュの王
メソポタミアの歴史を調べるうえで私が最も困惑したのがこの「キシュの王」という概念である。キシュは実在の都市なのであるが、メソポタミアの覇権を握ったその時々の王が別の都市の王であっても「キシュの王」を名乗った。どうやら偉大な王を意味するのは間違いなさそうだが、由来も何も分からない。
前2500年ころからの150年間、その時々に有力になった領邦都市国家はキシュ、ウル、ラガシュ、ウルクの四都市であったのだが、それぞれの隆盛期の王、ウルのメスアンネパダ、ラガシュのエアンナトゥム、ウルクのルガルキギネドゥドゥはその卓越した地位を表現するために以前の覇者であったキシュの都市の名を借りて「キシュの王」と表現した。これが千年以上受け継がれる「キシュの王」という表現の始まりであったようだ。
しかし初期王朝時代でキシュの王が覇権を握っていた頃は、まだアッカドが戦乱に本格参入しておらず、キシュが覇権を握った時代そのものも以後の王に比べれば非常に短い。だというのにそれ以後の王は例えキシュより長い時間、広大な土地を治めようとも、「キシュの王」と名乗ることが誉れとして思われた。
しかしある疑問が生じる。サルゴン王は捨て子からメソポタミア全土を統一したと思われていた偉大な王だし、それ以後にもウルナンム、ハンムラビといった有能な王が多く存在する。なぜ彼らでは駄目なのか。理由は分からない。強いて言うなら慣習だからということになる。
しかしキシュの王という表現そのものが特殊な意味を持っており、最早儀式の一環となっていたことは間違いない。その儀式の意味は「キシュの王」の座を与える神から判別できる。キシュの王はシュメル全土の王といった意味であると思われていたが、「キシュの王権」を与える存在はイナンナ女神であり領土や王権の正統性に携わる最高神エンリルではない。このことから「キシュの王」という称号は王国の広大さを表すようなものではない(初期55p)。
イナンナ女神には戦勝を司る側面が存在し、イナンナ女神に愛されるということは武勇に秀でた存在であるという感覚がある。このことから「キシュの王」という表現を使った王は一際武勲を得た存在という認識でいいだろう。
現人神
シュメル元々に現人神の概念は存在しなかった。王にとって重要なことは神に並ぶことではなく忠実であることであったからだ。シュメルの時代が終わった後のウル第三王朝二代目の王シュルギから王の神格化が恒常化するが、エジプトの神王のような最高神と同格の存在としてではなく、メソポタミアでは王の神格化はなされたとしても上位の神の僕であることには変わりなく、前二千年紀前半には一度現人神の概念は消え去った(前田 29p)。
メソポタミアにも尊大な王はいて自ら神を名乗ることもあったのだが、あくまで下級の神しか名乗らなかった。上位の神はそれだけ卓越した存在だったのだろう。また、偉大であった神が死後数年経って神として扱われることもあった。有名なギルガメシュもそのパターンである。
ナラム・シン王
ナラムシンはアッカド王朝第4代の王であり、前王マニシュトゥシュの子、サルゴンの孫である。名は「シン神の最愛の者」na-ra-am-en-zuを意味し、アッカド王朝ではサルゴン王に並び名が知られた王であることは間違いないだろう。
彼は先述の通りサルゴンの孫なのだが、後期の文学作品や年代記において彼はサルゴンの子として扱われるようになる。サルゴン王を主人公とした『戦闘の王』という物語や、ナラムシンの『クタ市伝説』を描く際に、アッカド王朝を代表する英雄王として対比する際に父と子という関係の方が都合がいいのだろう。しかしマニシュトゥシュ王は哀れである。
ナラム・シン王は「四方世界の王」と名乗り、王の神格化を採用した。そしてそれを皮切りとし、時代は領域国家から統一国家に移ることとなる。ナラムシンは自らをアン神を除く七大神と、冥界神ネルガル神とシリア地方の最高神であるダガン神に要請され王になったのだと名乗った(前田 106p)。ここで普段あまり名の挙がることのないダガン神が登場する理由はシリア地方の主神であるダガン神を登場させることで自身の支配領域がシリア地方まで広がっている事をアピールしたのだと思われる。
ナラム・シン王の神格化は先に述べたように神の僕となることであり、大いなる神々が都市神として都市を守るのを手伝うのが役割であった。彼は「アッカド市の神」にはなったが、アッカド市の主神であるイラバ神にとって代わったのではなく、自ら「イラバ神の将軍」を名乗り、イラバ神から授かった武器を持ち、都市神であるイラバ神に奉仕する存在であることを強調した。
しかし彼が自らを下位の神に位置付けていようともナラム・シン王が自ら神を名乗った最初の王であることには違いない。神格化された王はディンギルの他に角のある冠を被った形で表された。また、メソポタミアにおいては元々王冠は王の象徴であったことはなく、王杖が王の象徴であった。冠は王ではなく神の象徴であった。しかしナラム・シン以降、ウル第三王朝時代の王達などは、王杖ではなく王冠が王の象徴であるようになり、戴冠式が即位式を意味するようになった(前田 107p)。ナラムシン以前以後でここまで分かれるというのは面白い。
しかしこのナラムシン王はこれほどの権威を持っていようとも後の世においては悪王として描かれることも多かった。彼は「四方世界の王」を名乗り、それを誇ったが、それ以降のアッカドの王は誰一人その呼称を用いなかったし、王の神格化はアッカド王朝の滅亡までナラム・シンの他登場しなかった。
アッカド王朝の滅亡をテーマに描かれた『アッカドの呪い』ではナラム・シンこそがアッカド王朝を滅亡させた原因を作った王だとして描いた。アッカド王朝は周辺に住む民族であるグディ人に滅ぼされたのだが、都市に暮らすことが誇りであったメソポタミアの人々にとって都市を持たぬ蛮族グディに都市を攻め滅ぼされたということは屈辱であり、自分たちはグディ人に負けたのではない、別の原因があったのだとした。そしてその理由として元々不遜な王として扱われていたナラム・シンが挙げられたのだ。
具体的な原因としてはナラム・シンがエンリルの聖都を襲撃し、エクル神殿を破壊したことに対しエンリル神が怒ったためにグディ人を送り込んだのだと考えた。しかし実際にはナラム・シンはエクル神殿を破壊していたものの再建している。
彼の死後息子のシャルカリシャリ王はナラム・シンの革新性を否定するかのように伝統的な王権制に復古した。彼は讃えられることも多かったものの、傲慢な王として評価が分かれることもあった。
イッビ・シン王
彼は先に述べたナラムシン王の影響を受け、王の神格化を行うようになったウル第三王朝時代の王であり、名前の前にディンギルが付けられた(小林 267-8p)。
ギルガメシュ
ギルガメシュ神もまた死後数年経って個人神として選ぶことが可能な冥界の神として扱われた。初期王朝時代には『神名表』にも名前が記載されている。

ライオンを抱えたギルガメシュの像。
参考文献
小林登志子『シュメルー人類最古の文明』中央公論新社、2005 前田徹『初期メソポタミア史の研究』早稲田大学出版部、2017 ボテロ、ジャン、松島英子訳『最古の宗教ー古代メソポタミア』(りぶらりあ選書)法政大学出版局、2001