メソポタミアにおける神学的試論

神学的試論とは

神学的試論とはメソポタミアに複数存在する自らの宗教上の矛盾、あるいは理不尽と思える要素に対し説を打ち出し、解決に導こうとした作品群のことである。メソポタミアでは特に、自身が生きているうちに信仰の恩恵を受けられると考える「現世利益」の概念が発達していたため、死後に恩恵を受けられると考える他の宗教よりそうした疑問は身近にあった。

メソポタミアの人々にとって神がどのような存在であったか、詳しくは神中心主義の項を参考にされたし。要約すると人間は神のために造られた存在なのだから神に尽くさないと不幸が訪れるという思考である。この思考自体は疑問もなく受け入れられていた。しかし、それと同時に神に尽くしてさえいればある程度の思考が保証されるという考えも人々は持ち合わせており、その思考が現実とのギャップゆえに問題視された。

前2000年紀の初頭以降、信心深い人々の一部にどうして神に尽くしている我々に不幸が訪れるのかという疑問が湧きあがった。人々は当時神が全ての人間の運命を定めていると考えていたため人間の幸福や不幸は全て神の意思によるものだと考えられていた。そのため「何故神は私を苦しめるのか」というテーマを議論する「神学的試論」を扱う作品がそのころに作られた。

我々には3,4点が内容を読むことができるレベルで残っている。最も古いもののみがシュメール語で、残りはアッカド語で書かれている。「神学的試論」はその原因について「気づかずに罪を犯した」だとか、「寛大な沙汰を求めるべき」だとか、それぞれ問題に対して独自の結論を下した。

それぞれの神学的試論では独自の観点で「一人の人生」を振り返り自分が今までどのような罪を犯し、それは不可避のことであったのかなどについて語り、見てくれていた個人神などに対して自身の不幸が妥当なものであったのかどうかについて尋ねている。

『ルドルル』

突然な不幸に陥って嘆いている男の物語で「神学的試論」の中では最も有名である。神学的試論の中では古い方から数えて三番目の作品である。

正当な名前は『ルドルル(・ベール・ネーメキ)』(Ludlul bêl nêmeqi)といった。これは例に習って冒頭の一句を便宜上題名としたものであり、日本語では「私はいと賢き主を誉め称えたい」という意味になる。この作品は約500行四枚のタブレットから成り立っており、『ルドルル』と単にいえばこの本を指す。

『ルドルル』の主人公は敬神の行いを忘れていなかったにも関わらず突然不幸な目にあい、神にその判断が何故かと問い詰めている。といってもあくまで「試論」であるため単に嘆いているだけでなく、様々な原因を考えている。

まず彼は自身を苛んだあまりの災禍に、自身の善悪が神とは正反対のものなのではないかと疑っている。

人が自身で善行と考えることは、
神々にとっては罪なのであろうか?
人にとって冒涜と思われることは、
神々にとっては善行なのだろうか?
天にまします神々の意志を知る者があろうか?
冥界の神の目論見を、理解する者があろうか?
ボテロ p.99 ll, 14-15-p.100 ll, 1-4

メソポタミアの宗教において神の閻魔帳に道徳性の項目はなかったため、彼がいうところの善行とは神に対しての礼拝であったり神への日ごろの儀式のことを指す。

主人公は自身が日々の宗教的な勤めをしっかりとしていることを説明した後に、信仰心の薄い者を引き合いに出し、それに比べてなぜ自身がこれほど不幸なのかとも尋ねている。信仰心の薄い人間はメソポタミアの文献においては滅多に見られない存在である。といっても神の存在を信じていない人間はいなさそうに思われるのでこの場合の信仰心の薄い人物というのは日頃の儀式を怠っている存在のことを指すものだと思われる。

このモノローグの最終局面では彼はきちんとした結論を出すことに成功している。

私はいと賢き主、理性にたけた神を誉め称えたい。
夜の間はいきり立つが、日がのぼると心を鎮められる神。
賢き主、理性にたけた神マルドゥクを。
夜の間はいきり立つが、日がのぼると心を鎮められる神。
竜巻の旋風のように、神はすべてをその怒りで被い包む。
しかるのちその息は、朝のそよ風のように優しい情をそそぎ込む。
その怒りは抗しがたく、その激昂ぶりは大嵐のように激しい。
しかるのち彼の心は後ろを振り返り、魂は元のように鎮まる。
天は彼の握り拳の一撃に耐え切れないが、
その手はやがて鎮まり、絶望した者に差し伸べられる。
マルドゥクが怒れば墓は口を開ける。
だが恵みに満ちれば、大殺戮の犠牲者を救い出して下さる。
ボテロ 313p ll 17-18 314p ll 1-10

本来であれば引用はもう少し減らしたかったが全ての部分が重要であったので引用させていただいた。

ここではつまり、不幸などというものはあくまで神の気分次第であり、神は時に激昂し、また時に人々に手を差し伸べるのだと述べている。これは(彼らの)理に適っている、というのも人間の役割が神に捧げものをすることであっても神はそれに返礼をするとは考えられていない。神は人間のことなど考慮する必要がないのだ。結局彼の結論は「不幸がどれだけ訪れようとも私個人の努力とは関係はないが、神はきまぐれであるのでいつか恵みを下さるであろうから神への奉仕は続けていこう」ということであった。

この結論自体はこの作品に先んじた「神学的試論」二作に習ったことを再度まとめた結果であるが、この作品には彼らの神中心の世界観がよく表現されているうえに、主人公の嘆きパートにおいて聖職者ではない民間人が日常的に行っている儀式について知ることができるためその点においてもこの作品は非常に価値のあるものである。

『神義論』

『神義論』は「神学的試論」の流れを汲む第4番目の作品である。前二千年紀から前一千年紀への過渡期に制作された作品であり、ルドルルと同じような疑問を対話形式で取り上げ、同じ結論に至っている。

参考文献

ボテロ・ジャン、松島英子訳『最古の宗教ー古代メソポタミア』(りぶらりあ選書)法政大学出版局、2001

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