メソポタミア文明においては卜占は公的私的共に重要な儀式であり、重要な国の決定や個人の吉兆に至るまで占いは身近なものであった。占い師は軍事遠征に同行することもあれば、役人として王宮に所属することもあった。そうした人々は軍事遠征の成否や、神殿建設の成否、天候、王の幸福や安寧、国の今後などありとあらゆる事を卜占によって調べた。
- 内臓占い。
- 油滴占い
- 香煙占い
- 粉占い
- 天体占い
- 誕生占い
- 都市占い
- 人相占い
- 鳥占い
- 夢占い
- 霊媒術
など方法は多岐に渡って存在し、占いは大きく霊感的卜占と演繹的〈えんえきてき〉卜占に分かれる。霊感的卜占にはお告げや夢見、幻覚、あるいは「ひらめき(インスピレーション)」のようなスピリチュアルな物を指し、演繹占いには~~が起きたならば○○が起こる、といったような経験則の積み重ねが含まれる。
彼らは占いについて何万という方法をリストアップし、占い師となる人々はそれらを学び更に追加していった。なぜ彼らがそこまで占いを信用し、大切にしていったのだろうか。
まずメソポタミアでは神々が全ての運命を全て定めているというのは基本的な価値観であった。そして、神によって定められた運命が神の意思により様々な自然物にこっそり記されることがあるという考えはまったく普通のことであると思われていたようだ。この説明だけだとそんな都合のいい…と思われるかもしれない。しかし、世の中では時々尋常でない事が起こる。例えば身体の一部が欠損、あるいは多い家畜が産まれることがある。また、鳥の大群が特殊な軌道で飛び回っていることがある。これらが何らかの兆しであるという考え方はまだ理解できるのではないだろうか。
我々でいうところの黒猫は前を横切れば不幸が訪れる、だとか下駄の鼻緒が切れれば不幸になる…といったジンクスを彼らは事実だと信じ、それを見つける事に腐心した。彼らは神が人類に送るお告げは難解な形で示されると思っており、少しでもおかしな事が起こると彼らはその後目を光らせ、どんな出来事のお告げであったのかを記録しようと努力した。いわばそれが占い師の仕事であったわけだ。
例えば天体がどのように動けば、人々はどのような運命を迎えるのか彼らは数千年に渡り天体の動きを記録した。
そして占いは既に決まった運命を知らせるものなのは間違いないが、行動次第で運命を変えることもできると考えられていた。しかしメソポタミアでは人々に運命を変えることは絶対にできなかった、そのため知らされた運命を神々に変えていただくという形であった。例えばアッシリアにおいては月食は王の死を意味すると信じられていたが、そのときは代わりとなる人間を殺すことで王の死を取り消す事は可能であると思われていた。
目次
霊感占い
直接神から声を聴いたり、霊と出会ったりするタイプの占いである。今でも占い師は世間に多くいるがこのタイプの占い師は少ない気がする。「手相がこうなっているので貴方は今後こうなるでしょう」というのと、「今神からの声を聴きました。貴方は今後こうなるでしょう」というのでは前者の方が信じる人が多いのではないのだろうか。どっちも似たようなもんだとは思うが。私たちと同じ理由かは分からないがバビロニアの人々も明らかに霊感卜占よりも演繹卜占を好んでいた事が分かっている。
人が運命を教えてくださいと懇願した結果お告げがあったという都合のいい場合もあるものの、大抵の場合突然神からのメッセージを人間が受け取るという場面から始まる。それは老若男女問わず受け取ることがあり、占いを専門にしていない一般人も受け取ることがあった。
特に神からのメッセージをを受け取ることが多かったのは一種のトランス状態にある人や、日本の社会では精神疾患として扱われる特徴を獲得した人であったと思われる。そうした人々はアッカド語ではマッフ、またはムッフ(mahhu/muhhu)と呼ばれ、意味は憑き物に憑かれた人といった意味であったと思われる。
そしてお告げが受け取ったものには解釈が困難だった場合にはそれらの注釈・翻訳を専門とした人々がその解析を請け負った。夢に神が出てきたのだけれど良く意味の分からないことを言って帰っていった、そんな時人々は夢解き師を頼りにし、夢の内容の意味を教えて貰ったのだ。
夢解釈の専門家は男性はシャーイル(ša ilu)、女性であればシャーイルトゥ(ša iltu)と呼ばれた(ボテロ 283p)。しかし霊感的卜占の資料は演繹的占いに比べて圧倒的に少なく、メソポタミア本土で生まれたものではなくセム的伝統に根付いた文化であった。西セム系のマリと北方のアッシリア(同じくセム系)で特に重要視されていたようだ(ボテロ 290p)。ちなみに一番世界に影響を与えたのは霊感占いは預言者主義だと思われるが、預言者主義で最も有名なヘブライ語聖書はセム語族の言語である。
霊感卜占は演繹卜占に比べ、極端な方向に進みやすい事が特徴として挙げられる。演繹卜占は実際に起きた事がモデルとなっているので所詮大したことにはならないし、記録もしっかりなされていたので都合のいいように卜占結果を変えることはできない。精々鳥の動きが変だから戦争に負ける、だとか月食だから王が死ぬとかその程度である。
しかし霊感占いの場合、トランス状態の人物が行う事もあったため、予言されるものには大殺戮の暗示や王の子の死など悲観的な事件が多かった。しかし流石にヤバいお告げが多すぎたのかある時期から複数人が一斉にお告げを受けた時くらいにしか王に連絡は行かなくなった。
そして霊感的卜占に関わった聖職者の中には恐ろしい予言を告げ、もし従わなければ国が恐ろしいことになると、神殿の修復を命じたり、王の振る舞いを変えるよう脅すこともあった。これは霊感占いが自由に結果を操れるからこそである。当時の王はひと時も心が休まらなかっただろう。
しかしJ・ボテロが指摘するには彼らの中では多少利害を追及する事もあったかもしれないが、彼らのそうした王への圧力は本当に神の脅威を恐れていたゆえであり、王家に対する善意が含まれていた。
日本では戦国時代の寺社組織の狡猾さなどが有名でよく歴史小説で見る事もできる。しかし、メソポタミアの神殿に勤めている神官達の場合、王家に脅しをかけたとしても結局神官個人が富を得ることはなく、突き詰めれば神殿の利であった。しかしいくら善意であったとしても積もり積もれば困ったもので、ある時期になると王はいつ髭を剃るのかすら占術で決められるようになった。
演繹占い
広域で人気であった霊感占いとは異なり、演繹占いはメソポタミア以外の土地ではほとんど見られない。この種の占いが利用された国は他に前二千年紀中葉の小アジアのヒッタイトやエトルスクと何世紀か後のローマ、ヘレニズム時代のエジプトがあるそうだが、そのいずれも明らかにメソポタミア文化の影響を受けているという(ボテロ 291p)。
しかし反対にメソポタミア本土においては絶対的な地位を築いており、大量の資料が見つかっている。楔形文字の見つかった文書の種類の中で最も多いのは国家の記録でも私人の書簡でもなく卜占文書であった(ボテロ 48p)。
演繹卜占はメソポタミアにもとより存在したリスト化の文化から派生したものである。予兆を説明する「前提節」とその結果を示す「帰結節」から成り立つそのリストは時に一万ほどの数に及ぶことがあり、~~が起きたなら(前提節)、○○が起こる(帰結節)という構文がリストにひたすら書き綴られた。
例えば産まれてきた子供の特徴を列挙し、こうした子供が産まれたならその家が幸福になるとか不幸になるとかそうしたものがひたすら書き綴られる。その前提節にあたる存在は神々が人類に何かを教えるためにつけた目印であると思われたのだ。
それらは神が記した文字のようなものであると考えられ、例えば占星術を利用して観察される星々はメソポタミアにおいては「天の文字」と呼ばれていた。また動物の内臓の配置から運勢を読み解く内臓占いではよい結果が読み取れるように卜占を司る神シャマシュに内臓の位置を変えてもらうよう頼んでから羊を捌いていた(ボテロ 295p)。それは羊の内臓も人に未来の事を教えるために神が配置しているものだと考えられたからだ。
- 内臓占い 前二千年紀以降、最も一般的の形式であった。羊などの犠牲獣の内臓や色、形、形態,こぶの有無によって物事の行く末を占った。多くは羊や山羊の肝臓が重要視された。前一千年紀には著しく発展した占星術によってある程度下火になってしまった。
- 天体占い。古バビロニア以降に行われ、月、太陽、金星を中心に惑星の運動を観察した。日食や月食は災厄を意味した。
- 鳥占い 前二千年紀初以降、ヒッタイトにおいて盛んであった。鳥の動きや飛び方、食事、営巣によって物事の行く末を占った。
- 編年占い 出来事と暦の一致を照らし合わせる
- 産占い ずっと古代から、人間または動物の新生児の様相を注視することで未来を予測した。
- 人体相占い 人体の諸相、また人物の気分や性格を占いの材料とした。
演繹占いの有名なものだけでもこれだけ挙げられるが、その他日常生活で起きた出来事までかなりの広範囲が占いの対象となった。
しかしこれらを見てもわかるように何も知らない人間が一目みて読み取れるものではない。そのため対応表が必要であり、占い師ひたすら卜占の「前提節」と「帰結節」が書かれたリストを読み込んだ。さらにそれを読む専門家も必要であり、アッカド語でそういった人々をバール―(bârû)「観察する人」と呼んだ。彼らはただリストと照らし合わせるだけでなく様々な角度から物事を観察し、神の言語を解き明かそうとした。彼らは民衆にも頼られ、受け入れられていたようだが、どのように依頼されどのように報酬を受け取ったのかは詳しくは分からない。
個々の人間の人生にどれほど占いが関わっていたのかを表すものとして『暦編集』というテキストがある。ここには一年のそれぞれの日に何を行うべきかが記されている。彼らはかなり古い時点から活動の成否がその暦の吉兆によると思われていた。人生の成功を目指すうえでも吉日凶日の判断は重要だと思われていたようだ(ボテロ 276p)。
『暦編集』には日付の後にその日の吉兆、その日付を司る神、祭事、その日にしてはいけないこと、またはしなければならない事などが書かれていた。例えばこの日は洗濯をすべし、やこの日は訴訟を起こすと敗訴するだろうだとかこの日は~~神に供物を送るべきだ、などが列挙されていた。
そしてこれらの義務や禁忌事項は特に神に近い位置にある王家が特に守らなければならなかった。王達はこうした日々の決まり、それに加え多くの卜占術師や占星術師が彼らの観測によって発見された王家の危機を王に告げたため当時の王達は常に不安に苛まれ、多くの祓魔術師に助けを求めた。彼らにとって占いの結果は変えられるものであり、一種の神々の暫定的な決定と考えられていたため代わりを差し出したり犠牲を払うことによって未来を変えようと王は努めた。
彼らがなぜそこまで特定の事件を特定の結果に結び付けようとしたかは分からないが、あらゆるものを体系づけてリストを作っていった。時間の経過とともに民衆の間でも独自の演繹卜占法が登場したことも分かっている。
これは一種の科学の発露と言えるかもしれない。彼らの演繹的卜占は前1000年以降になると、非常に高度なものになり、天体占いと内臓占いを合わせて用い、内臓占いにおいては過去のリストと照合しながら「力の平行四辺形」の法則を利用することによって未来を解き明かしたのだという(ボテロ 302p)。私は「力の平行四辺形」の法則のwikiを見てみたが何が何やらさっぱりだった。
更には、数多いリストの中には事実もいくつか含まれている。彼らが観察した結果を書いているのだから当たり前といえば当たり前なのだが、「サソリに刺されたなら」「不幸になる」という事実も書かれている。彼らには毒殺の概念があるのでサソリと毒の因果が分かってもよさそうなのだが、これは卜占の項に入れられていた。
月本氏曰く、卜占書(演繹のリスト)の中にはときおり卜占師達の洞察を感じることがあるのだという。例えば「もし都市に預言者が多ければ、都市の混乱が起こる」(14p)。こういった文は確かに信仰とは離れた彼らなりの洞察なのかもしれない。
しかし同時に非科学的であったのも確かである。自軍を鷹に見立て敵軍を別の鳥類に見立て、片方が下降すればそれに対応する軍が没落する、そういった連想による結び付けはかなり多い。
当然それらの卜占は当たらないことも多かっただろう。しかし、それは人々が卜占を止める理由には全くならなかった。重要なことは成功の可能性があること、不安の解消、そして神により見守られているという実感であった(ボテロ 366p)。
また霊感的占いで見た夢やお告げも意味が分からない難解な夢やお告げの場合は占い師がそれを解き明かした。いわばこれは霊感的卜占と演繹的卜占の合わせ技といえるだろう。
主要参考文献
月本昭男『この世界の成り立ちについてー太古の文書を読む』ぷねうま社、2014
ボテロ・ジャン、松島英子訳『最古の宗教ー古代メソポタミア』(りぶらりあ選書)法政大学出版局、2001