メソポタミアの人々にとって神とはいったいどういう存在であったのだろうか。古代の人間であればあるほど信仰に熱心であり、神が生活の中心であったというイメージを持っているという方も少なくないと思う。古代の人々と一般化するのは良くないが、確かにメソポタミアの人々に限っていえば彼らの生活に神は密接に関与しており、人々は神への奉仕に励んでいた。
現在「信じる者は救われる」だとかそれに類する教義を持つ宗教は多い。しかしそれは言い換えれば、「信じてさえいれば救われる」とも取れる。そうした教義を持つ宗教には創唱宗教といって、何者かによって一から組み立てられた宗教であることが多い。今我々が教徒を目にする事のできる宗教はこうした創唱宗教がほとんどだ。
実はこの「信じる者は救われる」というメッセージは、既存の「信じるだけでは救われない」宗教を倒すために創唱宗教によって練られた必殺の文言なのである。実際にこの作戦は功を奏した。といっても信じるだけで楽だから良い、という理由で広まったのではなく我々の神は人の助けなど必要としないほど絶対的なのだから、儀式の必要な古い神よりも優れているという論調がウケたようだ。
創唱宗教とは反対に、自然に人々の間で生まれたメソポタミアの宗教では神とは庇護者である以上に、主人であった。人々は神を賛美する歌を歌ったり、儀式を行ったり、捧げものをすることで初めて、神々に対して多くのことを願うことができた。
ここでは彼らが神から庇護を受けようと、どれほどその身を窶していたのかを記したい。
目次
神中心主義
「神中心」主義とは人間は生まれながらにして神に仕える存在なのだと考える宗教上の概念である。メソポタミアにおいては人類は神の必要とする衣食住や生活用品を揃えあげるだけために存在すると考えられていたため、メソポタミアの人々は「神中心主義的」であったといえる。
ただ単に「神中心」と聞くとキリスト教の宗教戦争などが人命よりも神が優先された事例として思い起こされるのではないだろうか。しかし「神中心」、「人間中心」という言葉はあくまで宗教の理念を指す言葉であり、どれだけ信者が熱心であったかは関係がないので注意が必要である。
詳しくはメソポタミアの世界観の項にて語っているが、要約すると人は神に奉仕するための存在として生み出されたのだとされており、もし神に奉仕をしていなければ人類に存在価値はないという理屈がごく一般に通用している。
そのため誰も彼も険しい状況であろうと贅沢な食事や高価な奢侈品を神に捧げる行為を辞める選択肢はなかったうえ、むしろ多くの人々にとって喜びであった。この喜びという表現には別の要素も含まれているのだが、それは「罪と罰」にて語る。
そして同時に、神々への儀式を用法・用量を守って正しく行っている間は人類の危機はある程度免れるものだと思われていた。
そういうわけでメソポタミアの人々は神官に限らずとも多くのものを神に捧げていた。こうして聞くと信じるだけで救われるような宗教の方がいいような気もするが「神中心主義」の良いところも存在する。なんと人々は神の扶養をすることで「なんのために生まれたのか」と「どうすれば不安から脱せられるのか」というまあまあデカめのテーマを満たすことができたのだった。
この「なんのために生まれたのか」という疑問はこれ以降の宗教では答えが出されていないものもままあり、メソポタミア宗教の特異な点であるといえるだろう。答えが初めから定められている事が良いことであるのか、悪いことであるのかもまた疑問にすべきものであるように感じる。
正直な話、宗教は多様で、「神中心的である宗教はこういう宗教であるため~~である」などと語ることは難しくはあるが、それでもメソポタミアの宗教観を語る上で「神中心主義」は切っても切れない存在であると私は思う。
「文明のゆりかご」の名の通り、メソポタミアには今現在存在する宗教の土台となる要素が多く見える。しかし「神のために存在する人類と世界」という神中心の構図は人間中心主義に取って代わられることとなる。しかしなんと神中心主義が崩壊する兆候は少なくとも残っているメソポタミアの遺物には全くもって存在しなかった。それほどまでにメソポタミアの長い歴史に神中心主義は根付いていたのだ。
罪と罰
特徴としてメソポタミアの人々には死後良い世界に行くための功徳などが存在しない。人々の運命は全て神によって予め決められており、死後どうなるかは現世でどのような行いをするかは関係がなかった。人類の意志が神々の決定した運命に影響するとすれば人間の信仰心が足らずに、神が罰を与えられる場合か、例外的に不幸を押し付けられたと感じた人物がそれを取り下げるよう神に頼む場合のみであった。
それゆえメソポタミアの道徳観は宗教に拠らず、「道徳」は聖書などの形ではなく民間で出回っていた。人としてしなければいけない最低限の「倫理」が宗教に依存し、人としてどうあるべきかという「道徳」は人から人へと伝わっていくものであったというわけだ。
そのためメソポタミアには宗教に感じる潔癖さ、のようなものが思いのほかないことも特徴として挙げられるだろう。贅沢な暮らしを目指そうとも宗教的な批判を浴びることはなく、極一部の高位神官を除いて宗教的事情で男女の交友が妨げられるような事もなかった。神のために労働することを目的として発明された人類に神はそれ以上期待しなかったと思われていたのだ。
金にがめつかろうが、エロかろうが、周囲に白い目で見られこそすれ宗教的価値観によって咎められることはなかった。
古代メソポタミア研究の権威の一人であるJ・ボテロは人間の道徳律が神に敬意を表する唯一の方法であるとしたイスラエルの宗教の価値観はモーゼが成し遂げた最も大きな革命の一つであったと述べている(最古の宗教 279p)。
平たくいうと、「いいことをすると天国にいけるよ」という考えのことである。メソポタミアの世界において神のご利益が得られる場合というのは神に対して供物を捧げる等行為をした場合のみで、よい人間だからといってご褒美が与えられるわけではないし、悪人だからといって神への儀式を怠らない限り罰を受けることはない。
ボテロは道徳律を宗教観に持ち出したのはモーゼの成した大きな革命だと言っているのだ。十戒のように破ってはいけない決まりもメソポタミアには存在するが(時代によるが、神の名をみだりに使ってはならないなど)、それも神に関する事項ばかりで人物の善性などは宗教分野では触れられていない。
メソポタミアは敬神行為が推奨され、当然とされてきた社会であったが、そこに無私の概念はなかったのだ(最古の宗教 272p)。メソポタミアの人々にとって神に尽くす行為は一種の投資であり、人生で成功を収めたいのであれば、神を敬うべきだという考え方が一般的だった。「われは汝が与うるために与う」はメソポタミアの重要な概念の一つである。そして死後はどれほど善良な人間も悪人も一律に同じ冥界に向かうとされていた。
当時の彼らには神に見返りを求めることを悪いとする意識自体がそもそも存在しなかった。今の宗教では否定されがちだが、幸せになりたいから祈るという考えほど単純かつ明快なものもそうないだろう。彼らにとって神への奉仕という行為は宇宙全体の秩序にとってならなければならない存在であると考えられとおり、奉仕することは自身を不幸から遠ざけるとともに宇宙を守る誇り高い行いであり、行わない理由がなかった。
この場合の見返りというのは神々が運命を変えてくれるのではないかというものもあるが、もっと俗な話をすると高給取りを目指して勉強をして神官になることも咎められることではなかったようだ。
また理不尽な不幸については「このページ」で書いているが、神が決めた運命がたまたま悪いという場合もあれば悪魔のような存在から悪い運命が齎されると考えられることもあった。しかし神以外に運命を変えられる存在は彼らの概念にはなかったため悪魔も「悪い神」というような形で扱われた。
神との距離感
6000年前の人類の神に向ける態度は今のそれとは全く異なっている。簡単にいえば、昔の神々は今よりも距離が遠かった。メソポタミアの人々にとって神々は偉大で、近づき難く、圧倒的である。今でもそうだと思うかもしれないが、私の場合最も異なるのは近づき難さであると思う。メソポタミアには讃歌を代表に多くの神々に向けた文学が存在するが、今時の宗教にまつわる詩には信仰の情熱からくる喜怒哀楽が詩などを通して表現されることがままあるが、メソポタミアにはほとんどなかった。メソポタミアの人から神に向けた文学はほとんどが畏怖の念と称え敬う感情のみで構成されている。
特にメソポタミアの人々はそうした感情をメランムと呼ぶことがあった(me→力、làm→白熱する)。これは畏れといった言葉に日本語訳されるが、我々の畏れと彼らの畏れはかなり違っていて、彼らは神の威光の前に自然と跪いて身を震わせることしかできなかったという(最古の宗教192p)。要は後光が指しているのを感じた、とかそういった類のに訳せる文章だが特別感情表現が強いものを選ばずとも、彼らの文章にはカジュアルに「神に出会った気がしてひれ伏してしまった」というような文章が個人間の手紙においても登場する。
ちなみに実際のメソポタミア神話では人間と神族との間に血縁があるかどうかは場合により、物語によっては神同士との間の子が人間の場合や、人間は全て粘土細工の場合がある。人間と神が性行為を行うという思想もあったようだ。しかしギリシア神話のように神と人間が恋に落ちたり、同列に考えられるような物語はほとんどなかった。このことからも人々と神の距離が遠いことが分かる。
偶像崇拝
メソポタミアの人々は神像の中に神がいると信じていた。土地が神そのものであったアッシュルに関してはその限りではないが、メソポタミアでは像を布団に寝かしたり、車や船に乗せて市中を散歩させ、他の神々を訪問させたりした(ときには夫婦の神像を同じ布団に寝かせ、一夜を過ごさせたりもした)。また、戦争の際には戦勝国が敗戦国の神像を持ち出すことで、敗戦国の神は失われた扱いになった。また神像が捕虜として扱われることもあった。
そうして奪った神像は外交でも強い力を発揮し、この神像を返してほしければ…といった国家間の取引が行われることがも多かった。一応補足しておくと神像そのものに金銭的価値があったわけではない。神像そのものは一部の大きなものを除いて木に衣装や貴金属を纏わせたものに過ぎなかった。しかしそれでも彼らは作り直すより莫大な補償を支払うことを選んだのである。正に偶像崇拝の名が相応しい文化だったといえるだろう。
偶像外交は面白い事に他文明の国家に対しても行われており、メソポタミアの偶像崇拝感を持っていたミタンニ王国は娘を政略結婚でエジプトに送る際、神像も一緒に送っている。ニネヴァ市のシャウシュガ女神が「エジプトに生きたい、そして戻ってきたい」と自ら発言したのだとして、アメンホテプ三世にその神像を貸し出している。どうやらアメンホテプ三世の病気を知ってミタンニ王国の王は気をきかせて愛と生命の女神シャウシュガ女神をエジプトまで送ったようだ。
ではメソポタミアの偶像崇拝とは具体的には神像をどう扱うのだろうか。現在行われている宗教儀式は罪を洗い流してみたり、神と約束を交わしたりと人間が主体なものも多いが、
メソポタミアの儀式は大体「神の衣食住」を保証するためのものだった。詳しい解説は世界観の項に委ねるが、神はそもそも自分の世話をさせるために人間を生み出したのだから、神の衣食住をきちんとしていない限り人間に幸せはないと考えられていたのだ。
J・ボテロ氏はメソポタミアにおける神殿の扱いを語る資料が当時にものにないということで、旧約聖書外典「エレミヤの手紙」を引用している。この手紙はバビロニアの神を貶し、ユダヤ教信仰を賛美するものであるが、非常によくメソポタミアの神殿の様子が表されているので私も引用したい。
3 バビロンでは、金や銀や木でできた神々の像が肩に担がれて、異邦の民に恐れを抱かせているのを見るでしょう。 4-5 気をつけなさい。群衆が神々の像を前から後ろから伏し拝むのを見て、あなたたちまでが異国から来た民に似た者となり、それらを恐れるようなことがあってはなりません。むしろ心の中で、「主よ、伏し拝むべき方はあなたです」と言いなさい。 6 神の使いがあなたたちと共にいて、あなたたちの生活を見守っているからです。 7 神々の像は金や銀で覆われ、その舌は職人が磨き上げたものであり、まやかしにすぎず、口を利くこともできません。 8 おしゃれな娘にでもしてやるように、人々は金で冠を作り、 9 神々の像の頭に載せています。ときには祭司たちが、神々の像から金や銀をくすねて自分のものとし、 10 その一部を神殿娼婦に与えることもあります。神々の像は、人間にするように、衣で飾られますが、もともと銀や金や木でできていて、 11 さびと虫食いから身を守れないのです。紫の衣をまとってはいますが、 12 自分の上に神殿の埃が積もるために、顔をふいてもらう有様です。 13 また、地方総督のように笏を持ってはいますが、自分に対して罪を犯す者を殺すことができません。 14 右手に短剣や斧を持ってはいますが、戦争や盗賊から身を守ることもできません。このように、それらの像が神でないことははっきりしているのですから、恐れてはなりません。 15 人間が作った器は、壊れてしまえば何の役にも立ちませんが、 16 彼らの神々の像も同じようなもので、神殿に据えられているだけのものです。その目は、出入りする人々がたてる埃にまみれています。 17 また、王に危害を加えた者を死刑にするとき城門を閉ざすように、祭司たちは神殿を扉と鍵とかんぬきで固めて、盗賊に略奪されないようにします。 18 祭司たちは必要以上にともし火をともしますが、神々の像はそのともし火一つ見ることができないのです。 19 神々の像は、あたかも神殿の梁のようなもので、よく言われるように、その内部は虫に食われています。地からわいた虫が体や衣をかじっても、何も感じません。 20 その顔は神殿に漂う煙で黒ずんでいます。 21 その体や頭の上を、こうもりやつばめ、小鳥が飛び交い、猫までやって来ます。 22 このようなことで、それらの像が神でないことは分かるはずですから、恐れてはなりません。 23 神々の像を美しく装わせるためにはり付けた金も、だれかがその曇りをふき取らなければ輝きません。鋳型に流し込まれたときも、何も感じていませんでした。 24 莫大な値段で買い求められますが、それらは息をしていません。 25 歩けないので人間の肩に担がれ、自分の不名誉をさらけ出し、それに仕える者でさえ恥ずかしい思いをしています。 26 というのは、神々の像は地面に倒されると、もう自分では立ち上がれず、まっすぐに立たされても自分では動けず、傾けられても身を起こせないからです。その前には、献げ物が供えられていますが、死人の前に置いたも同然です。 27 祭司たちは、神々の像に供えられたいけにえを売ってもうけ、その妻たちもその幾分かを塩漬けにしてしまい込み、貧しい者や弱い者に分けようとはしません。 28 月のもののある女や、子を産んだばかりの女も、いけにえに平気で触れています。これらのことから、それらの像が神でないことは分かるのですから、それらを恐れてはなりません。
(聖書新共同訳 エレミヤの手紙)
もちろんこれらの記述はむやみに信用していいものではない。
神々の衣食住については以下の通りである。
衣
衣食住の衣においては衣類が信者たちの寄付により集まっていたようだ。偉大さを示す際には像そのものが大きくなりがちなイメージがあるが、メソポタミアの場合神像がかなりの財宝によって着飾られることでその偉大さを表していることも多い。
おそらく後述の持ち運びを行う儀式の際に都合がいいのだと思われる。
『旧約聖書外伝』のエレミアの手紙によると、木や金銀でできた像は時間によってさびや腐食が進んでいたようだ。しかし信者は甲斐甲斐しく世話を焼き、神像に積もった塵などは丁寧に取り除かれていたとも記されており、どれだけ大切にされていたかが分かる。
食
食物などを「儀式で捧げる」という文言は我々の訳した結果であり、実際には給仕人である人々が神に食料を運んでいるという考えである。
神々は人間とかなり近い食生活を送るものだと考えられていたようで、一日四回、食事をとっていたようである。しかし特筆すべきはその量である。残っている資料によると大きな神殿では一日牛23頭羊58匹鳥類70羽(家畜の場合更に性別や育て方にまで言及されている)が年中毎日納められている。さらに大きな祭典の日は増量される。流石に大げさに言った嘘のように感じるが、様々な情報を鑑みるにあながちそうとも言い切れなさそうなのが恐ろしいところである。
神殿の貯蔵庫に関する記述が残っているが、彼らは当番制を用いて近隣の村や都市からあらゆる種類の食品を集めており、神への献立が一定にならないような仕組みができていたようだ。さらに我々のイメージする古の儀式のように動物をそのまま祭壇に捧げるような事はせず、全て当時の王族が食べるような豪華な味付けで調理されていた。
我々なんてその日の献立にすら頭を悩ませる毎日だというのにそれほどの量の食材調理するだけでとてつもない人件費がかかるであろう。まさしく国家事業の名に相応しい仕事量であるといえるだろう。
彼らが食品を神に捧げた後どうしたかは分かっていない。そこまで度を越した量であれば捨てるのにも一苦労かかりそうであるが、神官達が食べていたのだろうか。ちなみに神々の毎日の食事の際には、香が焚かれ楽器での演奏が盛大に行われていたようである。
住
我々は通じやすくなるだろうと神を祀っていた場所を意味する楔形文字を「神殿」と訳すことが多いが、実際には人間の住む家と同じ文字が充てられている。神殿の周りには神を世話するため神官が住む住宅が並んでおり、主要な神殿の場合、その規模から神々の町などと呼ばれたりもした。
神殿そのものもよく讃歌などに登場し、あたかも一人の人物のように褒め称えられることがあるが、流石に神との扱いには差があり、擬人化したというよりは大きな神殿を誇り高く感じていたり、身近に感じているだけのように思える。地元の大きな建物を自慢する感覚であろうと思っている。
神々に神殿を建てたり、改修工事を行うことは権力者にとって非常に誇り高いことであり、ウルナンム王などはそうした工事を行ったことで「正義の牧人」と呼ばれた。
『ルドルル・ベール・ネメーキ』によると少なくとも神殿の一部の区画は期間的に開放され神像と対面できたようだが、どの神殿もそうであったのか、何か条件があったのかなどは全く分からない。少なくとも多くの神殿で聖職者達は出入りできていただろうと思われる。
以上が衣食住の扱いを簡単にまとめたものである。特に食の面は私にとっても衝撃が強かった。儀式のページを見れば更に詳しく分かるかもしれない。
他に偶像崇拝ならではの感覚で行われた儀式には前述した、神像を豪華な荷物と共に都市を巡礼させ、神同士を出合わせたりした儀式がある。その際の記録では、神が行く先々の都市を具体的な箇所を挙げて褒めているうえに、他の神や当時の王とコミュニケーションを取っており、その内容まで残っている。好きな神同士のコラボをファンが妄想したような感じだろうか。これを記した書記官はあの神ならこの都市にこういうコメントをしそうだとか、この王との絡みはこんなものになるだろうと脳内で補完していたのだろうか。
神殿に立ち入ることのできないような人であろうと、毎日神に祈ることが道徳的行為だとされており、さらに毎日供物を捧げるべきだとも書かれている。こうした行為によって人生の成功が得られるとも考えられており、一種の投資のようなものであり、税のようなものでもあったのだと思われる。神は一体一日にどれだけの供物を得たのだろう。そのほか個人でも毎日の捧げものの他に時節に応じて追加の捧げものが納められていた。もちろん捧げものだけでなく、食事をする前に神の名を呼ぶ行為など個人レベルで日々の儀式は染みついている。
ユダヤ教キリスト教が偶像崇拝を禁じているわけはいくらか理由が囁かれており、例えば信仰が薄れるなど授業で習うものもあるだろうが、あらためてメソポタミアの神官における神像の崇め様を見てみると他の民族からは異様に感じ遠ざけたのではないか、あるいは元あった宗教の否定を必要とした創唱宗教において一つ否定すべきメソポタミア宗教の要が偶像崇拝にあるとみてそれを否定したのではないかという視点も新たに生じてくる。彼らは神像を担いで散歩させたり完全に神と神像を同一視しており、よく巷で言われる偶像崇拝を許すと神と神像が同一視されてしまうから禁止されているという考えはあながち間違いでもない気がする。
個人神
個人神はメソポタミアの人々の間に共通して存在した宗教上の概念で、人々は生まれながらにして個人的な神を信仰していた。その神は大抵マイナーな神で、アン神やエンリル神などが選ばれることはなく、大抵は我々に聞き馴染みのない、他の書物にはあまり登場しない神が選ばれていた。
というのも、メソポタミアの人々は位の低い神である個人神に偉大な神との仲介を頼んでいたようだ。どうやら彼らの中には名の知れたアン神やエンリル神、イナンナ神などに個人の身でお願いするのは差し出がましいことであるという認識があったようで、まず個人神に「あの神に私の願いを伝えてくれませんか」とお願いしたのだ。
個人神は明らかにオリジナルの神ではない事もあり、もしかしたらオリジナルと思われている個人神も発掘できていないだけで何か由来があるのかもしれない。また、王などが活躍した際にはその個人神が信仰を増すこともあり、無名の神であってもパンテオンにまで食い込むことがあった。
メソポタミアには非常に多くの神が存在し、それだけでもカバーしきるのが難しいのだが、さらにそこに個人を守る個人神も加わるのだ。
個人を守る神というと古代ギリシャや古代ローマにも残っていた概念ではあるが、メソポタミアの個人神とは似て非なるものである。
メソポタミアの人々の名前は個人神を含めた短い文章になっていることも多く、その文章内においても神への考え方を読み取ることがができる。
○○神は輝いている、××神は王冠を頂いている。といった神々への畏敬の念を表した系統の名前や、神々への親切を期待した、○○神よ、我を憐れみたまえ。××神よ、私を養ってくださいといった名前、○○神は私の母。といった親のような行いを神に期待した名前はいずれも一般的な名前で、珍しいものでは○○神よ、私を許してくださいという、どう考えても自分の子供につけるべきではない名前の人物も見つかっている。
参考文献
小泉龍人『都市の起源ー古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社、2016
小林登志子『シュメルー人類最古の文明』中央公論新社、2005
月本昭男『この世界の成り立ちについてー太古の文書を読む』ぷねうま社、2014
ボテロ・ジャン、角山元保訳、久米博監修『神の誕生ーメソポタミア歴史家がみる旧約聖書』ヨルダン社、1998
ボテロ・ジャン、松島英子訳『最古の宗教ー古代メソポタミア』(りぶらりあ選書)法政大学出版局、2001