アイキャッチ画像はメソポタミア版桃太郎のようなやつ。
目次
はじめに
古代メソポタミア文明の人々は生物そのものを信仰することはなかったのでアニミズム的信仰を持っていたとはいえないが、神に関連づいてその生物が信仰を集めるということはままあった。ここではそれぞれの生物がどのような扱いを受けていたのか、また可能な限りその由来を書いていく。
また動物のみではなく、小家畜の繁殖はラハル神、穀類の発芽はアシュナン(Ašnan)神など生物に関する解説不明の出来事には全て神格が与えられており(ボテロ 104p)、そちらも非常に興味深いのだが私には詳しい資料が見つけられていないためこのサイトには記述をしていない。もし有用な文書があればインターネットのものでもいいのでお聞かせいただければ幸いである。
またメソポタミアの美術においても動物が扱われる事は多く、人類最古の乗馬を描いた作品も現状メソポタミアから発掘されたものだとされている。人類にとって非常に有用であった牛は家畜を代表し、畏怖の対象であったライオンが野生の獣を代表した。ライオンも牛も、メソポタミアの美術においては一貫してよく扱われた。
哺乳類
羊 西アジア世界では、シュメル人の時代から今現在に至るまで穀物といえば麦、家畜は羊が主流である。遊牧民に限らず農民も羊を飼っていたため、都市部に暮らす住民たちにとっても羊は身近な家畜であった。そのため羊を表す楔形文字などの象形文字は特徴的な角やあの体毛ではなく「田」の字のような形をしており、これは羊の肛門の形をしていると考えられる。メソポタミアでは古くから羊の去勢技術や多産の羊の発情をコントロールする術が知られていたようで、その術を扱う際に羊の生殖器に注目することが多かったからこのような形になったのだと考えられる。このことからも羊の畜産法が当時どれだけ発達していたかが分かる。しかし肛門などどの生物にも備わっているうえに「田」こんな形にまでデフォルメするとどの生物かまでは見分けがつかないものだと思うが「肛門といえば羊」というのが本当に共通認識であったのかは興味がある。
他にもシュメルには「先頭の山羊」(シュメル語でマシュ・サグ)など多くの技術が伝わっている。おとなしい羊の中に性格が激しい山羊を混ぜると山羊は自ずと先頭に立ち、羊はそれに付き従うようになる。すると牧人は山羊を制御するだけで羊の群れ全体を制御できるようになるという技術である。この技術は現在のトルコ、シリア、イランといった西アジアの国々に今でも継承されているようだ。この技術は有名な「ウルのスタンダード」の「饗宴の場面」中段にも先頭に山羊一頭羊二頭という形で描かれている(小林 65-6p)。またメソポタミア文明の文化を考えれば自明のことではあるが、祭礼の贄として用いられることも非常に多く、栄えた都市では一日に何百頭という羊が調理され神に捧げられることもあったと考えられる。
牛 牛は食用というより犂を引かせるための貴重な労働力として見られており、力強い牡牛に人々は畏敬の眼差しを向けていたと考えられている。牝牛は乳などが利用された。実際に牡牛の角や頭部は力の象徴として文書で扱われており、男の神達の根源的な姿は元々牛であったと考えられている。男神が描かれる際には牛を模した角冠を被った姿であることが多く、我々が人型の神と人間の違いを見極める際に使用することが可能であるが、これは当時牡牛が実際に神として崇められていた頃の名残である。詳しくは神人同形観の項に記してあるが、我々が知ることは叶わない先史時代にはアニミズム的信仰がメソポタミアにもあったのかもしれない。
神に捧げる獣は羊や山羊が使われる事が多かったが、大神に対する場合は牡牛が加えられることもあった。(小林 67p)。
豚 豚は食用として飼育されていた。餌は大麦などの穀物であったようで公的記録にも残っている。しかし羊肉の方が上等な食べ物であるとされていたようで、豚肉は女奴隷や犬の餌の食料であった。しかし食の好み次第では后妃のような身分の高い人であっても豚肉を食すことがあった事もまた記録に残っている。また羊や牛とは異なり、豚の飼育は女性の仕事であったと考えられていたようだ。豚の皮や脂も利用されており、特に直射日光のきつい場所では肌を守るために身体に豚の脂を塗っていたものだと思われる(小林 69-70)。また、イシュタル神と関係があり、いくつかの儀式で使用されている。
馬 有名な「ウルのスタンダード」の「戦争の場面」には馬に引かれた四輪戦車が描かれているが、これを引いている生き物は馬ではない。ろばであるという説もあるが、より有力なのはオナガー説である。オナガーは学名エクウス・ヘミオヌス・オナガーといい日本では半ろば、高足ろばとも言われる(小林 123p)。しかしオナガーが戦車を引きそのまま戦争に赴いたかどうかまでは分かっておらず、戦場までの移動にのみ用いられ、現地では降りて戦っていたとも考えられる。これがオナガーの姿(wikipediaへの外部リンク)だが戦争の際に乗ることは不可能に思える。
彼らにとって馬とはまず「ろば」を指し、アンシェといった。そして「オナガー」はアンシェ-エディン-ナ{草原のろば}と呼ばれ、「馬」はアンシェ-クル-ラ(「山のろば」)と名付けられた。馬がいつの段階でメソポタミア社会に入ったのかは分からないが、自らを神と呼ぶほど自己評価の高かったウル第三王朝第二代シュルギ王(前2094-前2047)君も『シュルギ王讃歌A』で自らのことを馬に例えているので、馬が好意的に見られていた動物であったことは間違いないだろう。イメージとして、牛と異なり馬は耕作などには使用されず軍事でのみ使用されたため、軍にまつわる人間の讃歌などに多く登場する。
またウル第三王朝の第四代シュ・シン王(前2037‐前2029頃)から第五代イッビ・シン王(前2028‐前2004年)の治世にかけての書記であったアブバカルラの印章印影図には馬と思われる動物に人間がまたがっており、これは人類が馬に乗っている最古の図であるとも言われている(シュメル 124-5p)。
新アッシリア時代には馬は非常に貴重な財力であり、ビジネス文書には罰則が馬だったり馬の取引があったりと生きた馬は神殿も関わる宝であった。
ライオン アッシリアは元々ライオンの生息地であり、文書には頻繁にライオン狩りの光景が登場する。ライオン狩りは武人の訓練、スポーツ、儀式的意味合いがあり、いわば伝統のようなものになってしまっていた。ライオンには大まかに二つのイメージがあり、一つは人を喰うライオンが「魔」を象徴するパターンと、その泰然自若としたように見える様からライオンが敬われるパターンである。前者がライオン狩りに、後者がイシュタル神の髄獣としてのライオンのイメージに繋がるのだろう。
ライオン狩りではライオンは世界に蔓延る「魔」の象徴的存在であり、それを王が仕留めることで宇宙の秩序を整える意味があったと考えられている。新アッシリア帝国の最大版図を誇ったアッシュル・バニパル王(前668‐前627)がライオン狩りをしている様を描いた肖像「ライオン狩り浮彫図」がニネヴァから出土しており、現在は大英博物館のアッシリア室に保管されている。アッシリアの浮彫における動物の筋肉の造形は迫力があり、美術史の観点からも評価が高い(小林 275p)。
しかし、アッシリアのみならずペルシアでも王が力を示すためのライオン狩りが行われていたようで、ライオンの数は減少の一途を辿っていたようだ。そのためライオン狩りの儀式をしなければ不安になってしまうメソポタミアの人々はなんとライオンの飼育と繁殖を試みた。狩るために育てるという行為は我々からすると非常に馬鹿げたものに感じてしまうが、人類の飢えよりも神への儀式を優先する人々なのでさもありなんといった感じである。
旧約聖書『ダニエル書』六章には「獅子の穴」に投げ込まれるダニエルの物語があるが、その「獅子の穴」こそがライオン狩りのためにアッシリア王家が飼育繁殖する施設であったと考えられる(ボテロ 139p)。
一方、好意的な見られ方の代表としてイシュタル神の随獣としての描かれ方がある。どうやら現在にも残っているような高貴なイメージが当時からライオンにはあったようだ。
猿 メソポタミアに土着の猿はなく、高貴な身分の人々は外国から連れてこられた猿を珍しがって飼育していた。そうした古くからある「珍動物外交」に関して有名なものとして後述の「王家の動物園」があるわけだが、新アッシリア帝国のシャルマネル三世(前858‐824)の治世「王家の動物園」にエジプトから大小の猿が連れ込まれたことが「黒色オベリスク」に刻まれている。エジプトの他にはインドからも猿は送られてきており、「ウル王墓」やウルク都市のアン神の聖域からアジア産の手長猿ギボン種、アジア産の尻尾がある猿ハヌマーン種の痕跡とみられるものが見つかっている。
シュメルには『猿の手紙』という学校教育で使われる教材があった。主人公のウクビはエリドゥ市の楽師長のペットの猿であり、離れて暮らす母猿に手紙を送る。そして生徒は人間の真似をする猿にほっこりしつつも手紙の正式な書式を学べる教材であるというわけである(ウクビは猿を指す単語だが「猿」という個人名の人間キャラクターであるという説もある)。こうした動物が人のように活動するという概念はメソポタミアにも元来見られたものだが、『猿の手紙』のような正にThe 動物寓話!といった作品の最先端を走っていたのはインドであるため、インドから猿が連れられたと同時にそうした物語の趣向がもたらされたのかもしれない。
またウル第三王朝第五代の治世、エラムに侵入されウル第三王朝が滅ぶ前年の「年名」(イッビ・シンの治世23年)は「ウル市の王、イッビ・シン神に(その山国の)人々が愚かな猿を連れて来た年」となっている。一般にイッビ・シン王が猿の貢ぎ物を喜んで年名にしたとも言われているが、ウル第三王朝が翌年に滅んでいることからもエラムの人々を指して猿であると言っているのではないかという説もある(小林 218-20p)。
鹿の角も珍しいながら円筒印章の素材となっていた事が確認されている(小林 90p)。
その他の動物
魚 メソポタミアの人々はティグリス川とユーフラテス川、加えてペルシア湾からとれる様々な種類の魚を食べていた。魚の種類ごとに名前もついていたようだが現在の種名と当時の種名を同定することは難しい(小林 70-1p)。魚の持っていたイメージとしては、キリスト教にあるような多産のイメージはこの頃から存在したと思われる。また当然かもしれないが水とも結びつきがあり、ティアマト神の例に見られるように水そのものが生命の起源と思われたメソポタミアでは魚が神聖なモチーフにも度々登場した。料理では意外なことに紀元前1500年頃には魚肉ソーセージが作られていたことが分かっている。その伝統はギリシャ、ローマへと引き継がれ、ローマの魚肉ソーセージセルサスがソーセージの語源となった。
鯉 そんな魚の中でも特別鯉は重要視されている魚であった。後の山羊座、カプリコーンにつながるスクル・マーシュの下半身は鯉であるし、メソポタミアには自身達の文明を築いた人々は鯉の装飾を纏っていた、あるいは鯉であったという神話があるほどである。どんな神話だ。メソポタミアには長く存続した儀式が数多くあるが、神官等が鯉の着ぐるみを着て行う儀式もそんな長く存続した儀式の一つである。なぜ鯉がそれほど信仰されるまでに至ったかは分からないが、ティグリス川には(Luciobarbus esocinus)という固有種の鯉がおり、その鯉は体長2.3m、体重120kgにも達する。この鯉は現在IUCNの定めた絶滅危惧Ⅱ類だが(秋道 17p)、こうした巨大な鯉が当時の人々の想像を大いに掻き立てたという可能性もあるように感じる。
かたつむりの殻も珍しいながら円筒印章に使用された(小林 90p)。
蜘蛛 巣を作ることから機織りと結び付けられており、シュメルにおいても機織りの女神ウットゥと結び付けられていた。また、蜘蛛の図柄が描かれた印章は機織り女によって用いられ、機織りという行為そのものを指す場合もあった(小林 95p)。
蛇 メソポタミアの地には湿地帯も多く様々な蛇が生息しており、蛇は神に与する存在と考えられていた。日本で家に蛇が住み着くと幸運が訪れるといった伝承があったように彼らにとっても幸運を呼ぶ存在で蛇神は個人神に相応しい神であった(小林 234p)。
また王冠を被った蛇ムシュフシュもメソポタミアのメジャーな怪物である。
ミミズ ミミズはメソポタミアにおいて特別な地位を築いた生物ではないが非常に興味深い小話があるのでここに記しておく。前二千年紀のかなり早い時期のアッカド語のテキストである、『歯痛を治すための祓魔儀礼』では歯神経に痛みを齎すのはミミズということになっている、この話においてミミズの祖となる存在はエンキ神が「甘い汁を吸う事のできる果物」を住処として与えようとしたにも関わらずそれを拒み、人間の下顎を住処に選んだ生物であるのだとされており、そのため我々の口からも除去されて当然だという論理が展開されている(ジャン 138-9p)。
そう、これは最も古い「虫歯」のテキストである。歯の中に虫が住み着きそれが歯痛を引き起こす原因であるという概念は18世紀頃までかなり多くの国家に存在し、実際に歯の中の虫を取る手術などもあったそうだが、そうした「歯に住み着いた虫」の出発点はメソポタミアだったのかもしれない。
蠍 蠍は当時においても恐ろしい生物であったようで、蠍に刺されたときの儀式の例なども残っている。
象 オロンテス川下流域の沼沢地帯には象も棲息していたが、象牙細工のために乱獲され前九世紀末には絶滅した(月本 139p)。
植物
聖樹ナツメヤシ ナツメヤシは「農民の木」とも言われ、穀物が不作した際は耐塩性が強く栄養価の高いなつめやしは農民にとって非常に貴重な栄養源であり、『ハンムラビ法典』になつめやしの果樹園に対する条文がいくつもある。果樹園は河や運河沿いにあり、ナツメヤシからは酒や蜜が造られ、乾燥ナツメヤシは旅の携帯食料にもなった。新アッシリア帝国時代(前1000頃-609年)には精霊を描いた美術品の近くに聖樹であるナツメヤシが配置されている(小林 64p)し、豊穣神の中でも位の高かったイナンナ神がよくナツメヤシを持っている姿で描かれることからもナツメヤシの重要性がわかるだろう。今日の日本ではなつめやしという名称よりデーツと書かれている場合が多い。ソースなどの原料で使われたり、2021年5月現在には美容の面でも注目を集めているようだが、それらは昔聖なる樹木に実った果実だったのである。この記事を書きながら注文してみた。思ったより甘く美容にはよくともあまり数は食べられなさそうである。
レバノン杉 レバノン杉は西アジアの数少ない良質な木材であり、それゆえ古代に乱伐されてしまいレバノン山地を覆っていたとされるレバノン杉は現在少量しか残っていない(ジャン 137p)。メソポタミアにおいてレバノン杉の林は昔恐れられていたものである。というのも名高い『ギルガメシュ叙事詩』の前半のモチーフであるフンババ討伐はレバノン杉を狩りにいく文化英雄譚なのである。文化英雄についてはいずれ項を作りたいが、要は禁忌を犯す事で文化に貢献した人々の事を指し、大抵結局祟りを受けてしまう。『ギルガメシュ叙事詩』においては木を切るという禁忌をギルガメシュが犯すものの結局神の怒りを買い自らの半身ともいえるエンキドゥが死んでしまう。
実在のギルガメシュもレバノン杉を大量に伐採していた事が分かっている。もちろんそうしたことで発達した文化も多くあるだろうし、文化英雄的偉業といえるのは間違いないだろうが、今でも確認できるレバノンの禿山を古代の資料と読み比べると身勝手ながら幾分かの寂寞感を禁じ得ない。
また木材としてだけでなくその香りも優れたものであると考えられており、レバノン杉の香油が3L用いられた儀式の記録も残っている。多ければ多いほどいい匂いというわけではないと思うが。
しかしレバノン杉といえば少し宗教に詳しい人にとってはキリスト教のイメージが強いのではなかろうか。アジア大陸における最も小さな主権国家であるレバノン共和国では国旗、国章ともにこのレバノン杉が描かれているが、こちらはメソポタミアのイメージよりもキリスト教の聖なる木のモチーフとして使用されている。
その他
シュメル人が自分らの文字の誕生を謳った『エンメンカルとアラッタ市の領主』ではエンリル神が支配した時代には争いのない、言語が一つの時代であったが、エンキ神が争いを産み出し、人々の言語が分かれ、蛇やさそり、ハイエナ、ライオン、野犬、狼が生み出されたと記されている(小林 185p)。逆にいってしまえばこれらの生物が人間にとっては争いを産むような存在である人の恐怖を起因する生物だと考えられていたのであろう。
虎 ティグリス河という発音はギリシャ語のもの「矢のように速く流れる河」という意味だが、このティグリスという名前、実はタイガーの語源になっている。つまり本来タイガーは「矢のように速く走る動物」という名前だったということだ。古代オリエント世界に虎はいなかったため中央アジアやインドとの交流の際に虎の存在をしり、(小林 7-8p)、その素早さからティグリスと名付けたのだろうと考えられる。
鯉の洪水 冥界に移り住んだ豊穣の神であるダム神が生み出した洪水であると民衆の間では信じられた晩秋の洪水のことである。寒暑の差の激しいバビロニアにおいて5月から10月は乾季で暑く、冬は雨季で寒かったためこの洪水に耕作の準備を行っていたが、度々想像以上の水量で人々の暮らしに害をもたらした。このダム神挽歌ではダム神が生み出したのが鯉の洪水だとされた。シュメルP8
羅針盤の鳥 『旧約聖書』の洪水物語、ギリシア神話のデウカリオンの箱舟伝承では、舟に家族と鳥獣を乗せて洪水をやり過ごした後、洪水が収まったかの確認のために鳥を放ち、止まれる場所のない鳥は二度舟に帰ってくるが三度目放つと鳥は帰ってこなかったため洪水が引いたことを知るという逸話が残っているが、この場面はベロッソスの「洪水伝説」や『ギルガメシュ叙事詩』にも確認できる。しかし鳥の種類は毎度異なっている。しかしその他の洪水伝説にはこの部分はまだ見つかっていない。シュメル地方はペルシア湾やインダス河流域を介した交易路を持っていたが、この際まだ羅針盤が発展しておらず、船は沿岸沿いを進んでいたが陸地が見えなくなった時に備えて陸鳥を船に乗せていた。方角が分からなくなれば陸鳥を放ち、鳥は陸が見つかれば帰ってこない。羅針盤の役割を鳥が担っていたという現実の船乗り経ちの知恵が「洪水伝説」には組み込まれていたのだろうと小林は指摘している。小林シュメルP13-14
王家の動物園 サルゴン王朝の時代に築かれ、それ以降の時代にもかなり長い間残っていた施設である。水牛、熊、猿など元々メソポタミアにはいない動物達が集められた場所であり、水牛はインダス川流域地方のメルッハ、熊はザクロス山脈方面から連れてこられていた。前2600年頃の「ウル王墓」出土の竪琴には「踊る熊」の図が書かれている(小林 102p)。これが現実の光景を描いたものなのかは分からないが、現実に熊使い(近年では問題視されているが)もいることから現実の光景であった可能性も十分にありえる。
参考文献
秋道智彌『魚と人の文明論』亜細亜印刷株式会社、2017
小林登志子『シュメルー人類最古の文明』中央公論新社、2005
月本昭男『この世界の成り立ちについてー太古の文書を読む』ぷねうま社、2014
ボテロ・ジャン、松島英子訳『最古の宗教ー古代メソポタミア』(りぶらりあ選書)法政大学出版局、2001