マルドゥク神

マルドゥク(marduk)神はメソポタミア後期の時代に特に活躍したバビロンの都市神にして、バベルの塔の持ち主である。特にバビロンが栄華を極めた際にはそれに伴って周辺地域の最高神にまで成り上がった。マルドゥクという名の語源は不明である。太陽神の仔牛1という語源は意味も通っておりある程度メジャーになったのだが、現在ではその可能性は否定されている。

マルドゥク神の最も特筆すべき点は数十を超える神と習合したことである。畏まった言葉で言えば習合であるが、平たく言えば彼が行ったそれはほとんど吸収といってよいものである

もっていた役割

バビロンの都市神

マルドゥク神は、少なくともウル第3王朝時代にはバビロン市の都市神であった。彼の崇拝は初期王朝時代にはすでに証明されていたが、彼の起源についてはそれ以上何もわかっていない2

名前の由来もどのような神であったのかすらもほとんど分かっていないのだ。しかし彼は献身的なバビロンの神官達によって次々に他の神と習合、バビロンのメソポタミアにおける趨勢に伴ってマルドゥク神もパンテオンの上位に組み込まれていくこととなった。

農耕の神

マルドゥク神が元々どのような神であったかを示す資料はない。しかしマルドゥク神は最高神になろうと、如何なる力を手に入れようとも武器である農具、マッル(marru)を手放さなかった。バビロンの人々もそれは尊重していたようで、後期のバビロンでは奴隷の焼き印には鋤のマークが使用されていた。

このようにマルドゥク神は歴史を通して常に農耕神としての役割を果たした。しかし、いくら農耕神としての表現が通年されていようと、必ずしもマルドゥク神の神としての元々の役割が農耕であったとは限らない。

呪術の神

マルドゥク神は、複数の神を習合した。それは後述の『エヌマ・エリシュ』の跋文に拠るものが多い。しかしマルドゥク神はかなり初期の段階で一柱の神を習合した。

その名もアサルッヒ(Asar-lu-ḫe)神である。この時の習合は後にバビロンの神官が行うような無理やりの吸収ではなく、他の神、イナンナ/イシュタルも行ったような一般に起こりうる習合であり、同一視のようなものであった。

呪術の神、とは書いたもののアサルッヒ神もマルドゥク神も行う事は悪魔祓いが多く、呪いとは異なる。

水、植物、知恵の神

マルドゥク神は水、植物、魔法、知恵に対して役割を持つことがあった。これはアサルッヒ神の父親がそれらに関するエンキ/エア神であったからである。神が親の能力を持っているとされることは稀にあった。

最高神

『エヌマ・エリシュ』の画像

マルドゥクが守護したバビロンはメソポタミアの歴史の後半に帝国を築いた。その際バビロンの神官達による施策の一環で、『エヌマ・エリシュ』が製作、発布された。

この神話の影響によってバビロンの周辺地域に限っては、マルドゥク神は最高神として崇められるようになった。

特にカッシート時代以降、マルドゥク神の重要性はますます高まり、バビロニアの天地創造叙事詩『エヌマ・エリシュ』の作者は、マルドゥクがすべての神々の王であるだけでなく、神々の多くはマルドゥクの人格の一面にすぎないと主張するようになった3

後にマルドゥク神はバビロン周辺において単にベル(主)と呼ばれるようになった4
のだが、このような現象は現代にも受け継がれている。いわゆる「主よ!」だとか「アッラー」の類の文言である。そのため時折研究おいて、マルドゥク神こそが一神教の芽生えだとする考えが述べられることがある

私には正直手に余る問題だが、多神教社会は徐々に一神教らしき信仰に向かう傾向がありマルドゥク神が宗教史の重要なターニングポイントであるかと聞かれると、そうとは言い切れない。どちらかといえば自然な変化が起こり、たまたまその対象がマルドゥク神であるといった感じである、と私は感じている。

では、『エヌマ・エリシュ』の影響で実際にあらゆる神がマルドゥク神として扱われたというと、それほど支配的ではなく便宜上といった感じであった。多くの儀式で従来の神の名前がそのまま使われ、時に文言に「マルドゥク神の一つの姿である○○よ」みたいなものが加えられた。

しかし、シャマシュ神やイーア神の持つ慈悲と公正の神としての役割はマルドゥク神のまま振るわれた5
理由は私には分からない。

崇拝された場所

バベルの塔と偶像崇拝

バベルの塔とは、つまりバビロンの塔であり、そのバビロンの塔の主は当然バビロンの都市神であるこのマルドゥク神である。こうした塔型の建造物はジッグラトと呼ばれ、メソポタミアでは大型の神殿の横に建てられることがよくあった。日本史受験をすると奈良時代の寺の塔の位置を暗記することになるのだが大体そういう感じである。

こうしたジックラトに地元の人間が固有名詞を付けることがあり、バベルの塔、もといバビロンのジッグラトの名前はエ・テメン・アン・キ(É-temen-an-ki)であった。名前の意味は「天地の土台」、あるいは「天と冥界の基礎台」“Foundation Platform of Heaven and Netherworld.”である6。バベルの塔の知られざる真名である。

ちなみに横の神殿の名はエ・サグ・イラ(E-sag-ila)であった。あるいはエ・サギル(É-sag-íl)であり名前の意味は「ひときわ高い頂にある神殿」である7。正直、塔の名前が土台神殿の名前が高い頂きなのでめちゃくちゃ混乱する。

では何故各地に存在するジッグラトの中でバベルの物だけが聖書に取り上げられたのか。ほとんどの理由はバビロンに沢山の人々が奴隷として連れてこられ、見せつけられたからである。しかしもう一つ理由がある、と思いたい。

それは一般のジッグラトは高さが30mほどなのに対しバベルの塔は90mもあった可能性が高いとされているからだ。これは当時にしてみれば超高層建造物であることには間違いない。といっても塔は塔であり、頂部に部屋がある程度で、いくら高くても住居として使用できるような建造物ではなかった。

このジックラトという建造物の存在意義は正直分かっていない。天文台とされることが多いが、塔の頂点は星を見るというよりは神が座る部屋のような形状になっており、おそらく単に「神に少しでも天に近い場所にいてほしい」というようなものが存在意義であるように思える。現に、バビロンのものではないが、エンリル神のジックラトなどは「天に行き来しやすいように」という理由で建てられたと記述されている。少なくとも旧約聖書にあるような彼らに人間が天に届いてやろうなどという意思は感じられない

バベルの塔、もといエテメンアンキは言うまでもなく重要な建造物である。しかし、実は神殿であるエサグイラも重要な建造物である。というより本来はこちらがメインのはずなのだが。

エサグイラにはマルドゥク神を祀る高い神棚があり、そこにはティアマト・シー(Tiamat Sea)と呼ばれる、マルドゥク神用の座席があった8

『シュルプ』(Šurpu)というメソポタミアの作品の中には、マルドゥク神の像の周囲には大小およそ百の神像が12のグループに分けて配置されていたらしい9。詳しい数は分からないがメソポタミア文明の民は対称性や数を大事にしていたのでおそらく最も割り切りやすく配置しやすい120体ではなかっただろうか。

偶像崇拝の禁止については色々な理由があるだろうが、旧約聖書外典「エレミヤの手紙」において直接的な偶像崇拝の駄目な例として紹介されるのはこのエサグイラの神像群である。バビロンの神官達は数千年間に渡りこの神殿の神像を作り替え、掃除し、食事を与えた。偶像崇拝が支配的ではない現代日本人の我々にとっても、なんとなく付喪神的な何かがそれらの神像には宿っていそうと感じる。

ちなみにメソポタミアの戦争ではこれらの神像は捕虜として使用され、戦争に敗北したバビロンのマルドゥク神像が奪いさられ、戦争の理由になったことがある。そういうわけでは何度かエサグイラを離れたこともあったが歴史に最も影響を与えた偶像の一つであることは間違いないだろう。

バビロンを除けばマルドゥクは、ニップル、シッパル、アルルなど、多くの都市に祠や神殿を持っていた。

アキトゥ祭

このサイトではメソポタミアの膨大な儀式を取り上げることはほとんどしていない。祭りの手順などは見てくださっているかたの興味を削いでしまうかもしれないからだ。しかしこのアキトゥ祭はめちゃくちゃ重要だし、めちゃくちゃ面白いので取り上げさせていただいた。

アキトゥ(Akitu)祭とはメソポタミアの都市において行われる節目を祝うイベントなのだが、それは正月だったり春分だったり秋分の日だったりする。バビロンの場合、正月の祭りだった。この祭りは非常に重要な意義があったようで、千年以上毎年少なくとも12日間に渡り欠かすことなく行われた。この点だけでも私は本当に素晴らしい文化だと思うし行ってみたい。千年以上続く祭りなど日本にもそう多くはない。

この祭りではバビロンの主神であるマルドゥク神がその一年の出来事を全て決定した。これはちょっとした輪廻思想であり、正月の一日に世界の全てが破壊され、全てが創り直されると考えられていた。つまりマルドゥク神は毎年新たな世界を創造し、その始まりから終わりまでを決定していたことになる

この祭りの十二、十三日間の行程は様々な説があり調べればキリがないのだが、大雑把にいえば神殿や神像の改修、『エヌマ・エリシュ』の読み上げ、日本でいうだんじりチックな黄金と宝石で飾られた神輿の巡航、生贄の供犠などが行われた。

最も面白い行程は一説には五日目に行われていた、「マルドゥク神の前で王が謙虚になる」という行程である。具体的にはバビロンの王から王だと示す装備を剥ぎ取り、マルドゥクの神像の前に置いた後、大祭司は王の頬を平手打ちした←!?!?!?

そして、彼の耳を引っ張って神の前に引きずり出した。王はひざまずき、バビロンへの義務を果たしたことを誓い、これからもそうすることを誓う。大祭司は再び王を平手打ちした←こっちはマジでなんで!?!?!?

そして彼の目に涙が出れば、マルドゥクが彼を気に入ったということで、彼は王を続けることができた。涙が出なければ、マルドゥクが王を認めないことを意味した。これもいわゆる一種の神明裁判である。

このように王は神に認められたことが大前提であった。同様に王が即位する際には王がマルドゥクの名を呼ぶ儀式があるが、これはあのアレキサンダー王もバビロンに到来した際に行っている。

アッシリア

紀元前14世紀頃には少なくとも、バビロニアの対極の立場にあるアッシリアでも人気のある神であった。アッシュル市でもバビロンほどの規模ではないにせよマルドゥクのためにアキトゥ祭が行われていた。彼はアッシリアではアサルッヒ神からの借り物の力である魔法や知恵、水と植生などにまつわる力を振るっていたようだ。

しかし、センナケリブ王(前704-681)の時代になると、マルドゥクの崇拝、神話、儀式のいくつかの側面は アッシリアの国家神アッシュルに帰依した(Black 129p)。複合神格であるマルドゥク神が更に吸収されてしまったというわけである。

←センナケリブ王の画像

またマルドゥク神が呪いの神として活躍するシーンも発見されている。アッシリアの条約では、マルドゥク神の名の下に条約の石版を破壊した者に「不可分の呪いを運命として決定する」と書かれている。つまり契約書を書いておいて、その契約書を破壊することで契約を破ろうとするものにはマルドゥク神が決して解けない呪いをかけるということであり。

アッシリアがメソポタミア全土を席巻した時期にはマルドゥク神の神殿がアッシュル神のために使用された。紀元前5世紀にバビロンを訪れたギリシャの歴史家ヘロドトスは、神官達から、エテメンアンキの上にある祠には「立派な大きな長椅子」しかなく、選ばれた「アッシリアの女性」がそこで神と一夜を過ごしたと報告している。

しかし考古学的に幾つかのヘロドトスの報告は誤りであると立証されているし、余所者にそのような重要な神事を伝えた神官がいたのかどうかは非常に疑わしい。だが、バベルの塔は乗っ取ったものがその頂部に君臨できた可能性があるということだ。

神話上の活躍

エヌマ・エリシュ』は重要な神話なので専用の項を設けている。

『エヌマ・エリシュ』ではマルドゥク神が最高神になるにあたってどのようにエンリル神の権力を引き継いだかという解説がなされている。若い神々を殺そうとするティアマト神を先頭とした古い神の集団に対してエンリル神から軍の指揮を正当に譲り受けたマルドゥク神が相対し、討ち取った事によって天地が創造される。さらにティアマト軍の司令官であったキング神の血から人間を作ったとされている。

『エヌマ・エリシュ』にはマルドゥク神を最高神に据えるためのバビロン神官の努力が如実に表れている。

  • マルドゥク神を持ち上げるため、後の世に生まれた神ほど優秀であるとされている。こうした『エヌマ・エリシュ』で生まれた概念は後の詩でも取り入れられるようになった。
  • バビロンの人々はエンリル神の持ち物である世界の運命を決める「天命のタブレット」(トゥプシマティ)が最高神に必要なものであると考えた。エンリル神は『アンズー神話』などで「天命のタブレット」などを盗まれることもあったが、マルドゥク神は「天命のタブレット」をキングーから取り上げた際に、「天命のタブレット」に自分の印を押した後に胸の上に固定した。バビロンの指導者達は決して盗まれることのない「天命のタブレット」の所持によってマルドゥク神が永遠に君臨するパンテオンを望み、引いてはバビロンという都市の永遠の栄華を望んだのだろう。

エッラ叙事詩では、エッラ神がマルドゥクを失脚させて、一時的にエッラ神が世界を支配できるようにしようとするシーンがある。これはかなり後期に書かれたものでマルドゥク神はユーモアのあるおっちょこちょいな老人のように描かれる。これは珍しい描かれ方ではありそう…なのだが、マルドゥク神には元々偉大な神ではなかったという経緯があるため登場する神話が少なく、面白老人の姿も受け入れざるを得ない。

ちなみに前千年紀にアッシリアが台頭してくると、『エヌマ・エリシュ』にマルドゥク神に代わってアッシュル神が登場した10

総じて、メソポタミアでは一部を除いた多くの神話は早い時代に作られたためマルドゥクが活躍する神話はそう多くない。

しかしこの神話を作った神官達は物語だけではマルドゥク神が「運命のタブレット」を手にするに値する存在であると示しきれないと考えたようで、異なる手を編み出した。それは他の神々の力を借りることである

『創成叙事詩』の結論部分ではマルドゥク神の50柱の神の名前が説明を伴って描かれている。これらの中には、アサッルヒ神(Asalluhi)、トゥトゥ神(Tutu)、エンビルル神(Enbilulu)などある程度知名度のある神が含まれている。そしてこれらの神々は全てマルドゥク神の別名であったのだとしたのだ。元々マルドゥク神とあまり関係もなく明らかに別の神格として他の神話でも登場していたにも関わらずだ

つまり、マルドゥク神を主神として扱ってきていなかった人々に「このマルドゥク神って神すごい持ち上げられてるけど、他の神話で聞いたことないよね」と言われた際、「お前が知ってるあのアサッルヒ神いるじゃん。あれ、実はマルドゥク神の別名なんだよね」と返せるというわけである。それは50柱もあれば、確かに大活躍の神といえるだろう。特に、マルドゥク神が運命を統べる神になったことによって運命にまつわる神々はほとんどマルドゥク神に統合されていった。やっぱりちょっとずるい気がする。

他の神々との関係

マルドゥク神の実の親?は不明である。かなり初期の段階でアサルッヒ神と習合したため、それ以降はアサルッヒ神の家族も乗っ取って三大神の一柱、エンキ/エア神の息子として扱われることとなった。エンキ/エアの妻として扱われる存在はニンフルサグ女神が多いが、マルドゥク神の母親はダムキナ女神であった。

マルドゥク自身の妻は ザルパニトゥ(Zarpanitu) という女神で、大神殿エサグイラではマルドゥク神と共に祀られていたようだ。ナナヤ神という神も妻として共に祀られることがあったようだ。父親のエンキ/エア神もハーレムを築いたしね。

前述のアキトゥ祭の11日目には、マルドゥクとザルパニトゥの婚姻の儀が行われることもあったという。

また、バビロンの近くのボルシッパという都市で崇拝されていたナブー(Nabû)神は、やがてマルドゥクの息子として扱われるようになった11

ここまでのマルドゥク神の親や妻、ナブー神という息子の存在はいわば自然発生的なものであるが、『エヌマ・エリシュ』では弟にウトゥ/シャマシュ神、妹にイナンナ/イシュタル神が付け加えられている。また、娘にサラ女神が追加されている12

もちろん後期に作られた神話である『エヌマ・エリシュ』の設定だからといって、『エヌマ・エリシュ』自体非常に有名な神話であるためウトゥ/シャマシュ神を弟に、イナンナ/イシュタル女神を妹としても構わないだろう。それが例え他の神話では滅多に見られない設定であったとしても。

随獣

マルドゥク神の随獣といえばムシュフシュ、ムシュフシュといえばマルドゥク神である。この図像はあまりにも有名である。

のではあるが、ムシュフシュはバビロンのハンムラビ王がエシュヌンナ(Esnunna)を征服した際に、エシュヌンナの地元の神ティシュッパク(Tispak)からマルドゥク神に引き継がれたと考えられる。ムシュフシュすらも乗っ取りだったとは。

描かれ方

文章としての書かれ方

マルドゥク神は記述においては山ほどの大きさがあったり、身体のパーツが多かったりする形で書かれることもある。しかしこれは頻繁に変化するため偉大さの表現であると思われる。基本的には威厳ある壮年の男性をイメージして大丈夫である。

マルドゥクの別名が大量にあるのは『エヌマ・エリシュ』で説明した通りであるが、マルドゥク自身をマルドゥクとして称えた称号は、「天界と冥界の神々の王」、「主の中の主」、「神々のエンリル」、「全人類の創造主」などである。またBel「主」、Bēlmātāti、「土地の主」もあった13

神々のエンリルというのはエンリルが人間の王であるから神々の王がマルドゥクであるといいたかったのだろう。

図像としての描かれ方

図像として描かれたマルドゥク神を他の神と判別する方法は武器であるマッル(marru)もしくは随獣であるムシュフシュである。それらが描かれていない場合も多く、その場合は発掘された場所などで判別される。

マッルという武器は農具の鋤の形状をしており、スコップに似た三角の刃がついたものである。この事からマルドゥク神には農耕神の一面も過去にはあったのではないかと言われている。この武器は彼のシンボルとしてシュメール人の時代から新バビロニア時代まで長く使われたようだ。

後のバビロニア時代には、一部の奴隷に鋤の形の焼印が押されていた14

マッル自体には特別な力があったという記述はない、があったのだろう。

この画像のマルドゥクは、バビロニアの王のような姿で、片手には王の象徴である棒と輪、もう片方にはなんらかの武器を持ち、随獣の蛇竜のムシュフシュを連れている。ちなみに下の波はティアマトを表しているそう。

この有名な図像は大型のラピスラズリの円筒印章に彫られたものであり、マルドゥクザキリシュミ王(前854-819)の時代に作られたもののようだ。添えられた碑文によるとこの円筒印章は金で固められマルドゥクのエサグイラ神殿の神像の首に掛けられたそう15

私感ではあるが、非常に威厳ある良い図像であると思われる。

後世の扱い

実はギリシャ・ローマのヘレニズム世界に持ち込まれたメソポタミアの神話はマルドゥク贔屓のものが多かった。それはギリシャ・ローマにメソポタミア神話を伝える仕事をしていたベロッソスという人物がバビロンの神官だったからである。

彼の著書『歴史』ではエンリル神はクロノス神、マルドゥク神がゼウスに置き換えられて紹介されている。しかし実際にはエンリル神の信仰地域の方が広いわけなのでこれは大分盛っている。

しかし結果としてマルドゥク神の知名度は後世においてはエンリル神よりも圧倒的に高まる事となった。

余談

バベルの塔の持ち主なのに武器は農具だったり、最高神なのに借り物の力ばっかりであったりと何かと特徴の多い神。しかしやはり『エヌマ・エリシュ』の活躍が大きく、とにかく偉大さばかりが強調されてしまう。

キャラとしてもう少しその点を掘り下げた作品を見てみたいものである。

また実はアン神やエンリル神のようにメソポタミアの最高神にありがちな人類滅亡を起こしていない点もポイントが高い。

主要参考文献

ボテロジャン、松島英子訳『最古の宗教ー古代メソポタミア』(りぶらりあ選書)法政大学出版局、2001

Black, J.A., Cunningham, G., Ebeling, J., Flückiger-Hawker, E., Robson, E., Taylor, J., and Zólyomi, G., The Electronic Text               Corpus of Sumerian Literature (http://etcsl.orinst.ox.ac.uk/), Oxford 1998–2006.

Frayne, Douglas R.; Stuckey, Johanna H.. A Handbook of Gods and Goddesses of the Ancient Near East . Penn State     University Press.

その他の参考文献

関連記事

  1. エンキ/エア神

  2. メソポタミアにおける動物の扱い

  3. メソポタミアの神人同形観

  4. 『創世叙事詩』(エヌーマ・エリシュ)

  5. メソポタミアにおける宇宙開闢論と世界観

  6. ウトゥ/シャマシュ神

  7. メソポタミアのパンテオン

  8. 『アン・アヌム』(神名目録)

  9. アン/アヌ神