シュメル語名をイナンナ(inanna)といいアッカド語名をイシュタルといった。天の貴婦人(Lady of Heaven)が一般に考えられている名前の語源である。Ladyを意味するのは本来ならNinであり、イナンナ神の訳語には本来適さないのだがどうやら彼女は古い時代にはニンアンナ神という名前であったようで、それが変化しイナンナ神と呼ばれたようだ。
イナンナ神は祭祀の中心はウルク市であったものの、広く他の都市でも祀られていた。イナンナ神はすでにウルク文化期には祀られていて、古代メソポタミア史を通じて広く受け入れられた大女神である。ニンアンナ→からイナンナのパターンの他にインニン、ニンニという呼び名もあった。
イシュタルへと名前が変わったのはアッカド王朝時代の事で、割かし有史間もないことであった。おそらくイナンナ女神の名がイシュタル女神に変わる前からアッカド語の世界にはイシュタルという名前の女神がいたようで、イナンナ女神の名前がイシュタル女神に翻訳されたというより、アッカド語に強い言語が入れ替わった際に元いたイシュタル女神にイナンナ女神の役割が与えられたのだと思われる。元々イシュタル女神はそれほどメジャーではなかった神のようで正に習合といった感じである。
メソポタミアの神々の中ではメソポタミアの神々の中ではキャラはがかなり立っている方で、後の世の作品に登場することも多く、有名な『Fateシリーズ』などの近年の作品にも登場している。しかし、当時際物として扱われていたかというと全くそうではなく、むしろ逆である。時代が進むとなんとイシュタルという名称が女神を指す一般名詞になるまでに至った。
メソポタミアパンテオンの特性上強力な神には権威が集中してしまい、元々の人間らしい性格が失われ「理想の人格者」のような性格になっていく事があったが、イシュタル女神の大胆で挑発的な性格はあまり変化することがなかった。
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もっていた役割
様々な役割があるが、大意は地母神である。戦いの神としての側面や、自由恋愛の神としての側面が強調されがちであるが、それは地母神としての役割に付随したものであると考えられる。メソポタミアに数多くいる肥沃さと実りを保証する神の一柱の中で最も権威高く、国力に直結することからほぼ全ての王達から熱心に信仰された。王の二大責務である経済繁栄と安全保障を招くことのできる重要な神なのである。
ちなみにメソポタミアではパンテオンの上部の神々に対して普通の個人が何かを願うということはなく、イナンナ-イシュタル女神も直接的に何かを願えるのはもっぱら王であった。普通の個人がイシュタル女神に願うなら自身の個人神を経由するなど手順を踏む必要があると考えられていた。
本来メソポタミアの地ではあらゆる名が体を表しているはずであり、地母神的な性質を持っているイナンナ女神が「天の女主人」という名を持っていることは少々変わっているように感じるが、イナンナ女神自身はメソポタミア神話の世界観が定まる以前に存在する神のはずであるので、イナンナ女神が神話上、生活圏ではないはずの冥界にいるものなども見つかっている。
それだけでなく、イナンナ女神の神話上での役割はまさにユングでいうところの太母であり明らかに神話の設定を超越してイナンナ-イシュタル女神には人類が大地に対して抱く全能感が投影されている。というわけでイシュタル女神の存在はメソポタミア神話の世界観を多少超越しており、メソポタミア神話の世界観を語る上で代表として用いてしまうと少々ややこしかったりする。というかイナンナ女神を示すと思われる図形が文字の誕生より先に存在するのだから(ring-postと呼ばれる芸術作品のこと)、彼女が神話を超越したのではなく彼女を前提に神話が生まれているのだ。他にはアン神やエンキ神も文字誕生に先行したことが分かっている。
といっても物語に登場する彼女の人格は全てイナンナ女神だけのものというわけではなく、様々な女神の人格が混ざり合ったのは確かである。ただそれが誰であったのかは今となっては絶対に分からない。しかし最も主たる人格がイナンナ女神であったことは確かである。
役割は大きくわけて実り、戦勝、自由恋愛、財宝、金星に分けることができ、儀式毎に彼女の異なる側面を引き出し、それぞれのご利益を賜ることが可能となっていた。分かりやすいところでは、アッカド王朝時代初期に編纂された『シュメル神殿讃歌集』では、ウルク市、ザバラマ市およびアッカド市にあった三神殿が脉われているのだが、それぞれで女神のある面が強調されており、ウルク市のエアンナ神殿に祀られているイナンナは誘惑と性欲の女神、ザバラマでは金星の女神、そしてアッカド市にあったエウルマシュ神殿に祀られているイナンナは戦闘の女神であることが強調されている。もちろんこれは文学上の表現であり、信仰の形はそう簡単に分けられるものではなかった。
「植物」の神としての役割
より正確には大地の神、地母神である。メソポタミアにはイシュタル女神の配偶神ともされるドゥムジ神に代表されるように植物の神は自体は数多くいるが、地を覆う群体を形成する「葦」や、あるいは地上の花を代表すると考えられた「なつめやしの花」がイナンナ女神を象徴することから彼女の地母神としての権威が高かったことが分かる。
やはり実りの神としての側面は王にとって重要で王達は自身の国の実りを熱心に祈っていた。イシュタル女神の大胆な性格はこの実りの神の側面も関係している。
というのもおそらく彼女のある種挑発的な性格は大地の豊かさの象徴である。メソポタミアの前3000年から前2000年に移り変わる時期のシュメール語の論争詩である『樹木対葦』のなかでは天=アンと地=キとなり、男で天の神であるアン神が精液の役割を果たす雨を降らせ、それが精液の代わりとなって大地であるキ神から樹木が生まれると考えられていることがわかる。
こういう大地が魅力的な女性であればあるほど大地の実りが良くなるという考えはオリエント各地で見られ、イシュタル女神はその最重要例であるといえる。イシュタル女神にそういった神話があるというわけではないのだが、これは地母神によく見られる特徴でわざわざ本来必要のない大胆で魅力的な性格が描写されるのにはこういった事情があるのだろう。
また、意外に思われるかもしれないが、イシュタル女神は処女神である。といっても彼女の性行為が描かれた文書もいくつかあるのだが、儀式の際にはイシュタル女神を指して「若い」、「乙女の」、「処女の」といった形容がなされる。これは正直いって矛盾であるし、この矛盾を解決する方法はない。時系列が違うと思われるかもしれないが、それでも説明がつかず明らかに処女のイナンナ女神と性行為をした後のイナンナ女神は同時に存在しうる。
おそらくだが、メソポタミアの人々にとって全ての植物を孕む大地は清純であるべきという思考があり、それが彼女の処女神としての立場を保たせたのだと思われる。イシュタル女神の性行為といえば彼女の恋人、あるいは旦那であるドゥムジ神との『聖婚儀礼』が挙げられ、これは通説では植物の実りを祈願するものであると思われているが王の子孫誕生を願ったものであるとする説もある。
というわけで彼女が何故ある種過激ともいえる性格をしているか、「自由恋愛」という特殊なものを象徴していたかというと、植物の女神としての性質に由来するものであるといえる。イシュタル女神に対し現代の我々が魅力を感じるとするとその人格が重要だと思うのだが、その場合彼女の人格を作った地母神としての面は忘れ去られるべきではないだろう。
「自由恋愛」の神としての役割
彼女の性質として現代最も取り沙汰されるのは彼女の愛と性行為の女神としての性質であろう。娼婦の存在理由や婚姻関係にない性行為の意味というのは我々が21世紀にあって歴史上の男女関係を振り返るうえで重要なポイントであることには間違いなく、メソポタミアの性行為にまつわる価値観を詳しく記そうと試みた文書が今なお書かれている。
そしてそうなると外せないのがイナンナ/イシュタル女神の存在である。彼女は性行為の神であるが、特に婚外交渉に関連しており、結婚の女神ではない。また、子供もほとんどの場合存在せず、母としての側面が強調されることはない。これは非常に珍しく、彼女のこういった側面のみを引き継いだのがギリシャ・ローマ神話のアフロディーテ女神である。といってもイナンナ/イシュタル女神はアフロディーテ女神と違って浮気をすることはなく、一つの物語中に複数の男性と関係を持つことはない。というより前述の通り基本的には処女である。
バビロニアのギルガメシュ叙事詩の第6番の石版では、イシュタル女神がギルガメシュに恋人になることを申し出ているが、ギルガメシュはイシュタル女神の全人類に対する扱いと恋人に対する扱いを非難し、ギルガメシュは新しい恋人になることを断っている。
ここでは、イシュタル女神がドゥムジ神に対して酷い扱いをしているものだと描かれており、これは『イナンナ女神の冥界下り』といった神話から由来していると思われる。『ギルガメシュ叙事詩』の知名度とどこか喜劇めいたこのやり取りが注目され、イシュタル女神が移り気な女性だと思われがちだが、実はイナンナ女神とドゥムジ神の間で交わされた深い愛を描いたシュメールの様々な詩が存在している。ただメソポタミア全体を見ると彼女は他の男性神と関係を持っていたりもするのだが。
ウルク市には特別重要な神殿が二箇所あり、すなわち天空神アンの白神殿「アヌのジグラト」に、イナンナ女神のエアンナ聖域である。エアンナとは「アン神の家」という意味でありウルクでは二人が愛人関係にあると思われていたことがわかる。
この神殿の儀式に関してあの有名なヘロドトス(いずれ彼の記事も書きます)が「女は誰でも一生に一度はアプロディテの社内に坐って、見知らぬ男と交わらねばならぬことになっている」(『歴史』巻一、一九九)と述べ、バビロン人の破廉恥な風習であると蔑んでいる。この場合のアフロディテとは同じ神格を持つイシュタル女神のことを指す。しかし実際にはイシュタル女神の神殿娼婦達が守護神であるイシュタル女神の神殿に出入りしていただけであって、ヘロドトスのいうような儀式は存在しなかった(シュメル 73-4)。
だがヘロドトスが直接神殿を見物した人物であるという点と当時資料は少なかったといった理由、また嫌になるがセンセーショナルであるという点からこの儀式は事実とは裏腹に知名度が高まっている、日本語翻訳された文章でもたまにこの儀式が実際にあったものとして扱っているものがある。
実際のウルクの神殿においては特に売春は宗教的意味合いが強い儀式であり、そこで勤めた神殿娼婦等は単なる娼婦とは区別されて考えられた。時代が下るにつれ他民族の影響を受けるようになろうと多くの女性神官達が売春を職務としていた。
そうした神殿娼婦の呼び名としては
シュメール語のヌ・ギグとヌ・バル、アッカド語のクルマシートゥ⇒語源が不明で翻訳が不可能
アッカド語のカディシュトゥ(qadištu, 捧げられたものの意)とイシュタリートゥ(ištarîtu,イシュタル女神に帰依した女)⇒意味が判別可能。
などが挙げられる。彼女等神殿女神の中には、幼少期から神殿で教養を積み、読み書きができ、詩歌を読むことができる人物などもいた。彼女等は売春に携わっていない間は針仕事などをして時間を過ごすこともあり、また非常に信仰熱心であった。ヘロドトスは彼女等の様子をみて破廉恥であると揶揄したが神殿娼婦達は信仰と常に真剣に向き合い、研鑽を積むことで儀式の主役を演じることも多かった。
また男性向け男性娼婦もメソポタミアの地では多くいた。メソポタミアにおいては他者に危害を加えない場合同性愛が完全に許容されていた。男性版宗教的売春婦としてアッシンヌ(assinnu)、クルガッルー(kurgarrû)、クルウ(kulu’u)などの存在がいた(最古の宗教 203p)。これらは男性神官の職種名であるが売春以外の仕事にも参加していたのかは分かっていない。彼らは残っている文献では、女性用の衣装を身に着け、手には男性の象徴である武器と女性の持ち物とされた糸紡ぎの紡錘を持ち性的二面性を演出しながらイシュタル女神を褒め称えながらいかがわしい舞踏を演舞したとされている(最古の宗教 203p)。
しかし、娼婦に対する職業差別がないわけではなかった。神殿娼婦が尊敬されていたこととは裏腹に宗教と関係のない娼婦(ハリムドゥ(harimtu)サル・カル・キド(sal-kar-kid)等「隔離された者」やシャムハトゥ(šamhatu)「遊び女」は低俗な存在だと思われていた(最古の宗教 201p)。なぜ人が娼婦を差別してしまうのかという問題に関してはフロイト先生などが考えを示しておられるが、門外漢なのでこの辺りで止めておく。しかしどう考えても差別する理由などないのだから差別はやめよう。
彼女の自由恋愛の女神としての加護の対象は神殿娼婦には限らない。
自由恋愛を司る女神として男女の恋仲に関しても頼りにされることがあり、例えば男性が性行為に失敗したときに(なんらかの事情で勃起できなかったとき)、その彼女が男性の誠意あるいは性的能力に疑いを抱いた場合、女性側はある儀式をすることができた。
一まず男性と女性の小さな像を作って豚の前に置く、豚が近づいてきたらそれは「イシュタルの一撃」と呼ばれ性行為の失敗は大したことではない。しかし、もし豚が背を向けたら男性は呪われており、回復は難しいと考えられた(最古の宗教 299p)。しかしもし男性が身体的な理由でなく過度の緊張によってそうなっていたのだとしたらショックで再起不能()になってしまいそうだ。
このようにイナンナ/イシュタル女神は大女神で、王が祀る神であったが、民衆にも人気があったようだ。先史時代からもいくつか裸婦像は出土しているが、メソポタミアでは前二千年を過ぎた頃の遺跡から正面を向いた裸婦の粘土像が多数発見されている。いくつかの特徴からこれは性愛の女神としてのイシュタル女神を表しているということが分かっている。具体的な用途は不明だが、民衆に人気があったらしく、大量生産されていたと考えられる(古代オリエントの神々 114p)。
他にも自由恋愛の女神として、というより彼女の性格に起因してイシュタル神の讃歌は形式に非常にこだわったメソポタミアの典礼において特別自由であり、他の神には使われないであろう表現が多いに使われた。
バビロン第一王朝のハンムラビ王の三代のちの王アンミディタナ(Ammiditana,前1683‐1647)が述べたイシュタルの賛辞では”魅力に溢れ、妖艶美に溢れ、官能美に溢れている”(最古の宗教 238p l13)や”彼女の唇は蜜のように甘い、彼女の口は生気に満ちている”(238pl14)といった賛美が述べられた。そしてもちろんその気高さと権力、能力も褒め称えられている。
メソポタミアの讃美歌では我々が現在目にする宗教詩のように「おお、神よ!」だとか「愛しの~~よ」といった人から神に対する親しみはなく、純粋に仕えるべき王として扱われることが多いが、イシュタル女神の賛辞には彼女に対する親しみが感じられる。
彼女の讃美歌では通常目上の存在を褒めるときに取り上げないであろうイシュタル神の愛の深さや、楽観的性格(彼女は喜びに覆われている等と表現される)が取り上げられるのだ。メソポタミアの根底にある「与えるから与えられる」という原則から抜け出していることの証左であるだろう。ちなみに思いやりが褒められている文書もあるが神話を読む限り彼女に一番欠けている要素なので恐れているがゆえのお世辞かもしれない。
ややこしいから書いていなかったが彼女が家父長制の価値観の下で貞淑に振る舞う恥ずかしがり少女として描かれることもある。そういう作品でも結果として彼女のセクシュアリティ部分が強調されることもあったのでやはり地母神に求められる清浄さが当時は処女と結びついていたのだろう。
「戦い」の神としての役割
彼女は第二の人格として戦い好きの女神として描かれることがあった。アッシュバニパル王がライオン狩りの儀式において4頭のライオンに勝利し、勝利を齎してくれたとしてイシュタル女神に一匹のライオンと飲み物を捧げ、女神が持つとした「勝利の弓」に言及した文書が残っている。
円筒印章などの図柄でも彼女のよく使われていた象徴である植物の茎の代わりに武器を背負っていることがあり、戦闘神としての属性が強調されていることがあった。

彼女の地母神としての性格と結びつけるのであれば王にとって重要であった実りの神はやがてもう一つの重要な要素であった戦勝も司るようになったのだ…。といったような考えは実際に可能であるし、地母神が戦争を司ったというパターンは他の神話でも見られる事象であるのだが、彼女の場合は元々別の神であったイナンナ女神とイシュタル女神が習合したアッカド王朝時代辺りにに戦争の女神としての側面が猛プッシュされたという経緯がある。
彼女の戦争好きは私のようなオタクが手軽に資料に扱う物語ではあまり登場しない。どちらかというと祈願や詩などでその残虐性は発揮され、戦争が「イシュタルの遊び場」と表現されることもあるほどである。彼女は戦争絵巻では戦う王の傍らに描かれる。鼓舞しているのか楽しんでいるのか、勝った国はイシュタル神に感謝を述べることが多いから守護しているのかもしれない。
彼女の好戦的な性格を示すエピソードとしては山が偉そうだからと山と喧嘩したシュメールの詩、『イナンナ女神とエビフ山』で見ることができるが、リンクをご覧いただければ分かるようにアン神ですら彼女のやり方にドン引きしている。
後は『イナンナ女神の冥界下り』において作中のイナンナ女神は勢力を拡大するために冥界に赴いている。冥界と天界は違う組織で動いているので彼女はいくら妹がいるとはいえ別の企業に単身で乗り込んだということになる。しかもアポなしである(笑)。
戦いの女神として描かれる際には「天の女戦士」の異名に相応しい姿で描かれ、翼を持ち、武器を持つ。女戦士としての側面が強調される際には他の側面は姿を隠すことが多い。まあ、鎧を身に着けて武器を持った状態で娼婦の女神としての側面が発現し下半身裸で登場されると反応に困るのは確かである。
しかし金星の女神の特徴として描かれる星の文様までもが描かれていないことも多く戦闘神としての彼女は別人のようであるとさえいえる。
財宝の神としての役割
前二〇〇〇年頃のシュメル語文学作品『アッカド市への呪い』の中では、「当時、彼女(イナンナ)はアッカドのエンメル小麦用の倉庫を黄金で満たし、白いエンメル小麦用の倉庫を(略)銀、銅、鉛そしてラピスーラズリの塊で満たし、その穀物のサイロの外部を泥で封じた」と、アッカド市の繁栄はイシュタル女神のお蔭であるとして財宝の女神に関する加護があったとも思われていたようである。
元は大地の女神である彼女が何故そういった金銀財宝を司ったのだろうか。もちろん分からないが、推測は可能である。メソポタミア王権の正当性の依拠するものがエンリル神に委ねられる前には、人類の王権はイシュタル女神によって与えられるものであった(Westenholz)。
我々がよく目にする戴冠式という儀式は今は王から王子に冠を与える儀式というイメージが強いが、昔は神が王権を継ぐものに冠を捧げる儀式であった。王が冠を戴くというという慣例も実はある時期のメソポタミアで起こったものであり、それが現在でも受け継がれているということになる。王冠の前にはいわゆる古代ギリシアの王笏のようなものが採用されており、それはイシュタルによって王に与えられるものであった。
個人的にはそうしたイメージが変形したものが財宝の神のイメージに繋がったのかもしれないと考えている。まあ、なんにせよ彼女のメインのペルソナというわけでなく、そうしたものも司ることもあるということだ。
また彼女自身も他の神々と同じく、むしろそれより金銀財宝が好きであったようでイシュタル神の神殿は各地にあったが、ほとんどの神殿でイシュタルが身に着けたものには金の指輪や数々の宝石やビーズ(もちろん高級品であった)、象牙の胸飾り、ショールやリボン、マントなどが含まれていた。自由恋愛のパトロンとして女陰を象った金の像が彼女の金庫に収められていたりすることもあったという。
金星の女神
イナンナ/イシュタル女神は金星を象徴する女神である。明星(金星)を司るイナンナの象徴として、クドゥルなどには彼女の証文としての八芒星の金星円盤が見られることもある。
メソポタミアの世界観では天体は神そのものではない。金星は宇宙より上にいるイシュタルの輝きが我々に見えている光芒ということになり金星がイシュタルそのものではない。はずなのだが、彼女は頻繁に「私は明けの明星である」といった金星そのものであるかのような名乗りを上げる。
メソポタミアでは有名どころの神は大体天体と結びつけられており、それをまとめたリストなども存在している。とりわけ太陽神は世界を照らすことから優しさや公正さを見守る存在になっていたり、月の神は自ら満ち欠けすることから再誕する能力を持っていたりするものの、大抵の神は星座の形がその神の象徴するものに似ているという程度である。
イシュタル女神の場合はというと明けも宵も世界を照らす太白(金星)の女神ということで彼女と金星は共に描かれることが多かったようだ。もっと沢山語れることはありそうで、イシュタルと金星の関係をかなり詳しく書いた本も沢山あるようだが、金欠で買えない。
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