エンリル神

エンリル神はかなりの長きに渡ってメソポタミアの最高神として君臨してきた神である。メソポタミアのパンテオンは流動的かつ都市国家ごとに異なる場合があるがエンリル神はいずれにおいても最高神、あるいはそれに近い立場であった

名前はenとlilの二単語からなり、大気の王とか地上の王といった訳語が充てられる。enは王という意味で訳されているが人間の王には別の言葉が充てられているし、lilは日本語では「大気」、英語ではBreezeという単語が訳語として充てられがちであるが、この言葉は大気というより、「地と天の間」といった意味合いも強く、「大気の王」というよりは「地下と天上以外の王」といった意味合いが強い。

メソポタミアの世界観は神の住む天界と、人々の住む地上、死者や冥界の神々が住む地下といった具合に分けられ、エンリル神は人々の住む地上を統べる存在という名前だということだ。実際エンリル神は天の王であるアン神よりも積極的に地上の民である人間に関わっている。

しかし天の主神であるアン神はあまり動かないので、実質的には天界もエンリル神が統べているし、地下の世界も冥界は冥界で別の組織軸で動いているという設定の場合があるもののエンリル神が冥界を思うままにしている場合もあり実質的ナンバーワン権力者であることは間違いないといえる

というわけで、「名がそのものの持つ役割を表す」と考えられていたメソポタミアでもとりわけ名と実情が異なる神だといえるだろう。最早エンリル神という名そのものが一まとまりの単語のようなもので、シュメル語からアッカド語にメソポタミアの言語が移った際にも、アッカド語ではEllilという名前が新たに当てられ書類上はそう書かれることもあったものの呼称する際にはシュメル語のエンリルという名前がアッカド語圏でも引き続き用いられていたと考えられている。。エンリル神を表す単語はエンリル神という名前以外になかったのだろう。

幾つか別名があり、エンリル神の圧倒的威厳を表した「偉大なる山」という意味のクルガル(Kurgal)であったり、「諸国の王」という意味であるルガルクルクラ(Lugal-kur-kur-ra)と呼ばれたりした。ヌナムニルという別名で呼ばれることもあったそうだが、詳細は分かっていない。彼を誉める際に「偉大な山」というワードが頻繁に使われ、山と何か関係がありそうではあるが詳細は不明である。

もっていた役割

彼の持つ役割は大きく二分できる。「王権」と「嵐」である。

「王権」の神としての役割

全宇宙の王 数字は50。「暦編集」によるとニサン月の一日(当時の元旦)はエンリル神の日である(最古の宗教 276p)。

これはメソポタミアの神リストに載っている彼の紹介文である。数字や日付はそれっぽいのがつけられているだけなので気にしないでもらって大丈夫だが、大事なのはともかく彼は全てにおいて「王」であったということだ。

一番偉い神はアン神かもしれないし、一番人々に頼られていた神はエンキ神かもしれないが、指示を出し、王宮に住まい、運命を作る。彼の仕事は正に人間の思い描く理想の王族の姿ともいえる。

さて、王権の神とは何ぞやということについて解説したい。原始のメソポタミアの王権はプリースト・キング(Priest King)制であった。日本語訳は司祭王でも神官王でも構わないが、プリースト・キングというのは要するに神官が政治を取り仕切る制度の事である。

神官王についての記述はそれほど多くないが、どうやら完全に制度化されたものではなく取り仕切るものが必要な際に自然発生的に生まれたものであったようだ。やはり当時の神官は勉学に励んだもの達であったし、神に近しいものということで説得力があったのだろう。困ったときには神官が真っ先な頼られ、やがて政治を行うようになったのだと思われる。

しかしそんな和やかな神官王制度は直ぐに終わり、少なくとも初期王朝時代には神官と王は別れ、戦乱の時代が始まったのだが、王権は神に授けられたという設定は引き継がれた

つまり王権神授説」の始まりというやつである。メソポタミアには都市神があってそれぞれの都市国家の政治は都市神が行っていると考えられていた。各地の王はその都市神の代理として政治を行う存在という設定が恒常化した。

しかしメソポタミアの都市国家間で戦争が行われるようになるととある問題が生じた。複数の都市を統べる王が登場するようになったのだ。一体どの神がそんな王権を授けたというのか。まあ、バビロン市のように自身の都市神が他の神より偉い、とすればそれでよいのだが中々言い出せることではない。

その時登場するのがエンリル神である。つまり複数の都市を統べた王は「自身の王権はエンリル神に授けられたものだ」と主張したのである。エンリル神は神々の王であったので、都市神に守られたはずである都市が侵略されたとしてもエンリル神の意思であれば問題がなかったのだ。

そんなわけでメソポタミアの歴史に名を遺した人物はおおよそ王族であるが彼らとエンリル神は切っても切れない縁があるのだ。そして人々の王に託す願いはやがてエンリル神にも投影されるようになり、やがてエンリル神は理想の王なペルソナを獲得した。

メソポタミアの王達は神の名を借りて政治を行ったことによって神官の言うことを聞かざるを得なくなり、多数の費用が神殿の改装に用いられるようになり、エンリル神は王権を象徴する神とされてしまったせいで元の自由奔放な性格は失われただ正しいことを言い、ただ善き政治を敷くだけの存在になってしまった。

もちろんメソポタミアの王達はほぼ確実に神の存在を信じていたため、利用したなどという言い方をすると悪意があるが、結末だけ見ると胸中のどこかが寂しくなった。

「嵐」の神としての役割

エンリル神は大気の王の名の通り風や嵐を象徴する面もあり、特に前二千年紀以前雷雨や暴風を司った翼を広げたアンズー鳥はエンリル神を表す図像だった。

しかし前二千年紀以降アンズー鳥はズー鳥と呼ばれるようになり、怪物としての意味合いが強まってしまった。怪物となったズー神は戦神であるニンギルス神によって退治される存在となりニンギルス神との関係の印象が強まってしまった。

何故「嵐の神」としての彼より先に「王権の神」である彼を紹介したかというとエンリル神の嵐神としての側面は比較的重要度が低いからだ。もちろん忘れ去られた設定というほどではなく度々彼と嵐を結びつけた記述は登場するが、嵐神は大量に存在する中「王権」を授けられる神は他にいない(特定の時代のイシュタル女神を除いて)。まあゲームで属性を付けるなら風属性にするかなくらいのものだというのが個人の感覚である。

崇拝された場所

エンリル神は都市ニップルの都市神であり、エンリル神自身の権威の影響でニップルは戦乱の時期でも聖都として扱われた。しかしニップルで生まれ広がった神ではなくかなり早い頃からメソポタミア南部の都市間共通で信仰されてきた神であり元から存在したエンリル神を都市ニップルが都市神として採用した形である(最古の宗教 85p)。

ニップルに聳える彼の神殿はエクル(É-kur)神殿とも呼ばれ(ボテロ 193p)、「山の家」という意味である。このkurという単語は山を意味し、一般的に使う場合は野蛮と考えられていた人々の住む場所を指すことが多かったが、この場合規模感が大きく、天に対しての山という意味で、kurもしくは複数系のkur-kurが使われ、要は「地上の家」、「地上の王の家」といった意味になった。この神殿は非常に高名でありエンリルが自ら作り上げたものだと伝えられたようだ。その神殿の傍にはエドゥルアンキという塔が建っており、名前の意味は「天と地の結び目」である。1888年のアメリカの調査団によって紀元前1500年代の地質からエクル神殿が発掘された。というわけでエンリル神の信仰の中心はニップル市であった。

しかし崇拝された場所と銘打ったのならば答えはメソポタミア全土であろう。彼はメソポタミア全域においてほとんどの場合最高神であり、彼を軽視している都市はなかったと考えるべきであろう。だからこそニップルは聖都であったのだ。誤解されがちなことだが、エンリル神はマルドゥク神に完全に最高神の座を奪われたわけではない

前三千年紀の初め頃以降はアン神の代わりにエンリル神が最高神を務めるようになった。ここまでは完全に正しい。しかしその後バビロンが強くなった際にマルドゥク神にエンリル神が成り代わられたと説明されることが多く、それが問題なのだ。間違いではないのだが実際にはマルドゥク神を最高神とする勢力とエンリル神を最高神とする勢力は二分されていたので、全時代を通してみた信仰の勢力はエンリル神の方が多いと思われる。バビロン周辺から遠く離れるとエンリル神を最高神とする勢力は根強く残っていた。

しかしマルドゥク神は激推しされた都合上どの神より優れていたとするテキストが多かったのと、後世においてメソポタミアから各国に招かれた神官がバビロンの神官であったため満場一致でマルドゥク神が最高神であったと思われたのである。現日本でもエンリル神はどこか中継ぎのようなイメージがあり、オタクカルチャーにおいてもマルドゥク神の方がよく出てくるような気がする。

しかしエンリル神は集めた信仰に比べて知られていなさすぎる神の一柱であることは間違いなく、神話好きなら知っておきたい神である。彼の信仰が全パンテオン共通であることを示す資料として『ナンナ/スエン神のニップル訪問』が挙げられる。ナンナ/シン神といえばかなりの信仰を集めたメソポタミアの月神なのだが、そんな彼の神像がニップルを訪れた時の事を描いた資料である。

この資料によると彼の神像は自身が守護する都市であるウルを大量の贈り物と船に乗り出発し、作法にしたがってニップルのエンリルの神殿を来訪し、贈り物を献納し、自らの都市ウルの幸福と繁栄を祈ったそうである(最古の宗教 220p)。この儀式が実際に神像を伴って行われたかは不明であるが(なんせ距離にして150km)、人々にとってもナンナ神ほど偉大な神であろうと父であるエンリル神の元を訪問する際には大量の贈り物が必要であると考えた事は事実であるだろう。

神話上の活躍

エンリル神はメソポタミアの最高神を定めるアイテムである「運命のタブレット」(トゥプシマティ)を持っていた。設定上このタブレットに世界の運命を決める記す際は強大な神が数十人集まって会議する必要があったはずなのだが、所々「いやこの運命エンリル神が一人で決めただろ」というような場面が存在し、実質的に世界全ての運命を統べる神のような役割を担っていた。

そのため世の天災や戦争の結果はエンリルが決定したものとされた。国家が滅んだ後にはその国がなぜ滅んだかの解説としてエンリル神がその国のどこが気に入らなかったのか、の解明が進められその行為は以後避けられるようになった。

メソポタミアでは洪水物語の大洪水を引き起こすのはもっぱらエンリルであった。彼は他にも干ばつや疫病や先天性の病気などを人々に送っており、洪水が彼の能力というよりは大規模な災害を与える神といった趣が強い。

彼はもちろん神々の軍事権も保有しており、天界の危機には彼が全権を持って立ち向かうはずであったのだが、エンリル神にそのような神話は見つかっていない。そもそも天界を害する存在がいなかったのだ。しかし天界に外敵が現れる場面がある。それがバビロン神話の『エヌマ・エリシュ』である。

古い神々と新しい神々という激熱の戦いが始まった、のだが悲しいかな。このテキストはバビロン神話であったためエンリル神は「正式に」マルドゥクに権力を渡したことになっている。この正式というのはバビロン周辺のみの設定ではあるが。

他の神々との関係

父はアン神、母はキ神である。角冠が象徴として用いられたのはアンから受け継がれている。姉に誕生女神であるアルル女神の存在が認められることがある。エンキ神とニンキ神の子とする文書もあるがマイナーである。妻は女神ニンリルで同じくニップルの都市神である。スッド(sud)女神が妻と考えられることもあったがほとんどの場合はニンリル神である。

ニンリル神の詳細は分かっていないが、エンリル神の妻であることを前提に考え出された存在だと思われ、名前も「主」を意味するエンを「女主」を意味するニンに変えただけのものになっている。

神話ではエンリルが産まれる前は天と地がくっついていたが彼が生まれ間に入ることでアン神が天を上に、キ神が地を下に持って行ったといった話も残っている。

エンリル神とニンリル神』という詩はエンリル神とニンリル神の出会いを描いたものである。ニンリル女神は非常に若く美しく、ヌンバルシグヌ女神という年老いた女神は彼女に外で裸になってはいけないと忠告するもののニンリル神はそれを破り河で水浴びを行った。エンリル神は水浴びしているニンリル神を発見するとともに一目ぼれし彼女を襲ってしまう。彼はその頃には既に最高神であったが、最高神であっても強姦罪は習俗上不潔であるとしてエンリル神はその罪で冥界へと落とされた。しかしお腹に子であるナンナ/シン神が宿ったからと追いかけてきたニンリル神をさらに三度子供を妊娠させ、冥界でつくった三神ネルガル神-メクラムタ神-エンキ/エア神を身代わりに月の神シンとともに地上に戻ってきたとされている。ひどい話だが実在している。

彼女とスッド神の出会いを描いた物語も現存している。どうやらこの物語では一般に妻として扱われるニンリル神の存在を踏まえた上で進んでいるようだ。

彼の子供として名前が挙げられる存在としては
嵐の神 アダド神
月の神 シン神
冥界の神 ネルガル神
豊饒の女神 イナンナ女神(諸説あり)
戦の神 ニヌルタ/ニンギルス神
射手座の神 パピルサグ神
火と光の神 ヌスク神(反対にエンリル神の祖先とするテキストも存在する)
太陽の神 ウトゥ神(諸説あり)
大地の女神 ウラシュ神
戦の神 ザババ神
堤防と運河の神 エヌギ神

など現代では聞かないものの当時は活躍した神々が挙げられる。私事だがこういう神の属性と名前が対応したリストを作る時が一番幸せである。

随獣

前述のアンズー鳥としてもいいかもしれないが、随獣とは少し違う感じがある。牡牛も関わりがあるといえばあるがアン神と被っているしキャラ立ち的にアンズー鳥でいい気もする。

ニヌルタ神に討たれるアンズー鳥。最初はエンリル神の象徴であった聖なる鳥だったが後世は怪物として扱われた。引用:Black p14

描かれ方

彼はひげを蓄えた角冠を被った男性の姿で描かれる。当初はアン神を表象するのが主だった角冠というシンボルも新アッシリア時代にはすっかりエンリル神のものとなっていた。王、最高の主、父、創造主、「荒れ狂う嵐」や「野牛」、そして「商人」といったイメージが彼の性格を称するのに使われていたようだ(Black 76p)。

←エンリル神の神像。

エンリル神を描いたもの。あごのもじゃもじゃは全てひげである。 手にもっている彼の輪っかと紐は検地に用いられたものの可能性が高い。

後世の扱い

天文学的にはうしかい座との関係が示唆されている(Black 76p)が、現状具体的な伝説もなく、総じて影の薄くなってしまった神ともいえる。やはり性格がまともすぎる神は後世で取り上げられづらくなってしまう。

しかし、最高神の癖に裁判で冥界行きになるし、運命決めれる癖にいつもキレてばっかりだしとまあまあ癖が強い気はする。ちなみに有名な悪魔リリスはメソポタミア出身でリルトゥを原型としている。そのリルはエンリルのリルと同じく風を意味するが、エンリルと彼女の間には現状全く関係がない。サブカルで大人気の彼女と関係があればまだワンチャンスあったのだが…。

余談

 免責事項というか言い訳をさせていただきたいのだが、メソポタミアでは神にお世辞が通用すると思われていたため最高神であるエンリル神は讃歌や祈祷文の数が多い都合上、とにかく「全宇宙の王」だとか「この世の全ては彼の意のまま」だとか人から神に対してのメッセージにはちょっと盛られている

結局我々にはどのテキストが実際の設定かなど決めることが不可能であり、全ての文に諸説ありと書き足してもいいような状況である。盛られる前と盛られた後の両者を全てここで紹介できれば一番いいのだが、量が膨大なためそれも叶わない。他のサイトさんや本と説明が矛盾している場合はどちらかが間違えているというわけでも(おそらく)ないと思うので、苦情は本サイトへのコメント程度に留めておいていただきたい。

主要参考文献

ボテロ・ジャン、松島英子訳『最古の宗教ー古代メソポタミア』(りぶらりあ選書)法政大学出版局、2001 Black
J.A., Cunningham, G., Ebeling, J., Flückiger-Hawker, E., Robson, E., Taylor, J., and Zólyomi, G., The Electronic Text
Corpus of Sumerian Literature (http://etcsl.orinst.ox.ac.uk/), Oxford 1998–2006.

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