一神教による多神教批判

一神教と多神教のどちらが優れているのかという議論は啓蒙の時代と呼ばれる18世紀に始まり、キリスト教圏で始まったため、当然一神教の方が優れているという理論が数多く展開されていた。しかし1970年前後から欧米の一部の論者からキリスト教批判が始まり、1980年頃日本にも一神教批判が波及した。主に一神教の人間中心主義と暴力性が取り沙汰され、人類の失敗として扱われた。

我々のよく漫画でよく目にする腐敗した、あるいは陰謀渦巻く宗教は一神教であることが多いのではないだろうか。しかしこれらは歴史的事実と照らし合わせてみると中々に事実無根であるというか、自然を荒らす行為は多神教も行っているし、多神教国家が動物の絶滅に追い込むこともある。

宗教を理由にした戦争なども有名でないだけで多神教でも行われていた。こうした現代日本の一神教が暴力的であるといった考え方は、様々な理由があるだろうが単に国家間の対立や過去の多神教批判への揺り戻しのようなものであると思われる。

啓蒙の時代の宗教学

16世紀の世界宣教時、世界各国からキリスト教圏に多数の宗教の情報が持ち出された。その際に唯一の神を信仰する宗教を一神教(monotheism)と呼び、多くの神を祀る宗教が多神教(polytheism)及び偶像崇拝(idolatry)として括られた(月本 52p)。

特に一神教と多神教の比較という主題を思案するうえでギリシャ宗教など以外はそもそも知られてすらいない時代が長かったということは意外と忘れられている点であろう。そもそも啓蒙の時代以前は自身の宗教以外の宗教の存在を知らない民が多かったのだ。

啓蒙の時代のキリスト教徒や宣教師の手紙などを読んでいるとどうも彼らは多神教は一神教の堕落形態だと考えていたようだ。つまり一神教を信仰していた人々が弱さから複数の神々の存在を許してしまったのだと考えたのだ。これはヴォルテールなどの考えを発端とする。

つまれ彼らは一神教が最初で堕落した結果多神教になると考えたのだが、事実は一神教は常に多神教を元に、それを征服するという形でのみ登場する。しかしヒュームやルソーなど、一部の啓蒙思想家は多神教が人類の原初的な形であると既に見て取っていたようだ(月本52-3p)。

19世紀中葉から始まった宗教学では宗教進化論として多神教先行論が一般化していったが一神教先行論原始一神教説も根深く残っていた。A・コントはドゥ・ブロスの西アフリカの諸族のフェティシズム(呪物崇拝)を人類最古の宗教形態とみて、人間精神の発展段階をフェティシズム→多神教→一神教という三つの時期に区別された(『実証哲学講義』1830‐42年)(月本53p)。

多神教先行説

多神教先行説である宗教進化論。世界各地のキリスト教圏にとっては未開の地であった民族には精霊信仰が息づくことに着目したE・Bタイラーは、それをアニミズムと名付けた。彼のアニミズムから多神教、そしてその中の有力な神が全てを統括し一神教観念が誕生したという考え(『原始文化』1871年、比屋根安定訳、誠信書房、1962年)はもちろん粗が多くあったが、この意見は広く受け入れられた(月本 53-4p)。正鵠を射た意見だと感じるかもしれないが、この理念には一神教は進化の末に誕生したものであり、最も先進的な宗教なのであるという観念が根底にあった。

一神教先行説

一神教先行説である原始一神教論は今の我々には敬虔な信者が必死に主張しているもののように感じるかもしれないがきちんとした根拠のある学説であり、A・ラングとW・シュミットが提唱した説が有名である。ラングはオーストラリア先住民などに観察される至高神(Supreme Being)への進行などを理由とし、一神崇拝こそが人類最古の宗教形態であると主張した(『宗教の生成』1898年)。シュミットは至高神に関わる世界各地の膨大な民俗学的資料を集め、原始一神教説を裏付けようとした(『神観念の起源』全12巻、1912-54年)(月本53-4p)。

しかしこれら二つの議論はよく聞くと双方、一神教が多神教より優れているという観点で共通している。早いか遅いかの違い、というやつである。西欧から判断して文明が遅れているというだけでそれがより起源的性質を有しているという考え方や、至高神崇拝と一神教が同列に語られる点に批判が集まっていた(月本54p)。要は田舎だからって考え方まで古いとは限らないということだ。

こうした批判を踏まえR・ペッタツォーニは『一神教の形成』(1950年)を出版した。彼は歴史に現れる唯一神教は全て創唱宗教であることを指摘した。ユダヤ教のモーセ、キリスト教のイエス(とパウロ)と、イスラム教のムハンマドなどの開祖の多神教の否定によって齎され、進化によって一神教が産まれるのではなく革命によって誕生するのだと述べた。その一方で彼は多神教の天や太陽の神が持っていることの多かった「全知の神」という性格は一神教の神にも取り込まれていることを指摘した。しかし彼はキリスト教はユダヤ教の影響を受けていたり、イスラム教が両者の唯一神観を踏まえているという点は見落としていた。唯一神観は古代イスラエルで成立し受け継がれていったものなのである(月本54-5p)。

また風土論的な説明も行われるようになった。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの主要一神教は西アジアの乾燥地域に誕生しておりE・ルナンは一神教の成立を古代西アジアの乾燥風土の牧羊民族であったセム系民族と結び付け、「砂漠は一神教的である」と論じた(『セム系民族の特質、特にその一神教傾向について』1859年)。

さらに時代が進むとルナンの影響を受けたM-J・ラグランジェはセム族が原始一神教であったという説を提唱した(『セム系宗教の研究』1903年)。

実際にはこのようなことはなかったとしてもこうした風土論的説明はある一面を切り取っていたことは事実で、現在でも創作物では牧畜民は一神教的性格であり、農耕民は多神教的傾向が強いといった形で今でも利用されているのではなかろうか。

反例としては紀元前後の牧羊民(サファ人、サムド人など)もシリア砂漠の民が石に書き起こした膨大な碑文資料にも一神教的傾向は示されていない点や、古代西アジアの典型的牧羊民であるアモリ人が樹立したバビロン第一王朝からは一神教は起こらなかった事などが挙げられる。更にはムハンマドが登場する以前のメッカは多神教のメッカであった。古代シリア・パレスチナに明確な一神教信仰を伝えたのはイスラエルしかなかった。

しかしメソポタミアには政治神学上全ての神々の神性が究極的には一つであるとした考えがあると見たB・ランツベルガーはメソポタミアのそれを「単一神性論」(monotheiotetism)と名付け、J・アスマンはエジプトのそれを「宇宙神観」(kosmotheism)と呼んだ。

乾燥風土が一神教的だとする考えは一面的であるが、宗教と風土は密接に関わっている(月本55-6p)。

拝一神教

このように一気に様々な宗教の研究が進んだ啓蒙の時代であるが、その際に一神教の細分化も始まるようになった。

宗教学の祖であるF・マックス・ミュラーは一定期間を限って特定の神を交互に祀る古代インドのヴェーダ文献を読み取り、拝一神教を意味する「単独崇拝」(henotheism)と名付け、他の神の存在を認めない唯一神教とは区別された。現在では古代インドの宗教体系は拝一神教とも区別され、より明確な「交代一神教」(kathenotheism)と呼ばれている。こうして一神教の中でも下位区分が産まれた(月本56p)。

一神教でもカトリックではマリア崇拝や聖人崇拝、イスラム教の聖者廟参詣など崇拝対象は必ずしも単一ではない(月本51p)。

一神教の芽生え

19世紀末にはじまった本格的な古代イスラエル研究では、モーセたった一人の手によって唯一神観が芽生えたという可能性は否定された。モーセが実在の人物か否かを読み取ることは既に不可能であったし、モーセ以外の人物の提唱の可能性を洗いなおす必要が生じた。

唯一神観の芽生えは前六世紀のバビロニア捕囚時にヤハウェの唯一神の絶対性が確立されているが、それに先立つ王国時代(前11世紀末から前6世紀初頭)の宗教事情と文献学の考古資料も唯一神の芽生えの研究に用いられるようになった(月本57p)。つまり今まで前六世紀にヤハウェ神の絶対性が確認できたことで満足していたのだがそれ以前にも唯一神観ってあるんじゃないの?ということだ。そこからは多くの新事実が見つかった。

まず判明したのは王国時代には国家神であったヤハウェにならんで様々な神が祀られており、ヤハウェが多神教の中の一柱であったことだった。複数の碑文資料には神ヤハウェに配偶女神がおり、名がアシェラであるということが判明した。

第二に、前九世紀以降、一部のヤハウェ信仰者の中から神ヤハウェのみを崇拝すべきだと主張する「ヤハウェ専一運動」(Yahweh-Alone-Movement)と呼ばれる現象が起こったことが分かっている。その活動参加者の一部が預言者であった。しかし全ての預言者が排他的一神教を標榜したわけでなく、他の宗教にも寛容な預言者も多くいた。つまり前九世紀以降の王国におけるヤハウェ神の扱いは拝一神教的であったといえる。その後イスラエルが国土を失い、捕囚の民としてバビロニアに連れ去られたことが唯一神観の芽生えの直接的な要因となった(月本 57p)。

前八世紀から前六世紀にかけて登場したイスラエルの預言者達は国の現状を憂いていた。

エジプトの奴隷という境遇から解放してくれたのは神であるはずであるのに、国は賄賂で腐敗し、弱者は踏みにじられ、為政者はエジプトやアッシリアといった大国に依存し、人々は豊かさを約束する別の宗教に惹かれていった。宗教的指導者までもが他宗教に靡いていた

預言者達はこういった彼らをみて神の審判が来るということを宣言し、国が滅びるとまで言い切った。多くの人間が彼らを無視した。が、実際前八世紀後半に北王国は滅亡し前六世紀はじめに南王国も滅亡したこれにより預言者の告知した神の審判は現実であるとされ、注目を浴びていなかった預言書が再び注目を集めた(月本 125-6p)。

ここまで情報が出揃ったことで一般宗教史における一神教と多神教の位置づけの議論は20世紀半ばで一旦落ち着いたが1980年からまたもや議論が巻き起こった。キリスト教内部からキリスト教批判が起こり、暴力、性差別、専制政治などの原因が事象を一元的に判断する一神教的な性格のせいでまきおこったのではないかと唱えるものが現れ、同時に多神教は自然と融合でき他者に寛容であると言われ比較議論が巻き起こったのだ(月本 58p)。

しかし先ほども述べているように実際歴史を見てみると多神教だろうが一神教であろうが人は常に戦争しているし差別もしているし、専制政治を行っているため、現在なお続いている多神教を持ち上げる文化は啓蒙時代のキリスト教が行っていたことを多神教側がやり返しているだけに過ぎない。結局皆が違って皆いいのだ。

そして実際、カトリックにはマリア崇拝や聖人崇拝があったり、一神教にも多神教的価値観が見られることもあり、一神教と多神教自体をそもそも分けることができるのかという議論もなされなければならない。

主要参考文献

月本昭男『この世界の成り立ちについてー太古の文書を読む』ぷねうま社、2014

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