『最高賢者叙事詩』

概要

 前1700~1800年頃にアッカド語で作られた作品である。ハンムラビ王で有名なバビロン第一王朝時代の作品であり、バビロンの第五代王アンミツァドゥカ王(Ammisaduqa’ 紀元前1646-1626)の署名がある写本も見つかっている。

三枚のタブレット120行の長大な叙事詩で、メソポタミア史においては比較的新しい部類の物語である。現在はその3分の2が経年劣化の影響を受けず読み取ることができ、残り部分は発掘が待たれるが、大体の内容は解明されている。他のバージョンでは古バビロニア版、新アッシリア版、後期バビロニア版、ごく一部しか見つかっていないがヒッタイト版などが存在している。

この作品を我々は主人公の名前をとって『アトラハーシス(Atrahasis=「最高賢者」叙事詩』と呼んでいる事が多い。主人公名は表記次第でアトラム・ハシースとも呼ばれる。古バビロニア時代の文学の中で思想面、技術面でもっとも完成度が高く偉大な作品の一つであるという声も多い。さらに言えば旧約聖書「創世記」の序盤部分にある洪水物語に近しい形をしており、その点でも注目されていた。

しかし内容が伝えんとしているメッセージは旧約聖書の洪水物語とはかなり異なっている。この叙事詩では人類がどのように誕生したのかという点に主点が置かれており、メソポタミア神話の典型である神々の営みや偉業ではなく、「なぜ神々が人間を生み出したのか」ということと「なぜ人間は死ぬのか」という点にスポットが当てられている。

この作品は「神中心主義」の説得力のある説明として、あるいは神が人を死ぬ定めに作った理由の説明として、当時も広く受け入れられた。

あらすじ

この作品は冒頭で最も偉大なアン神、エンリル神、エンキ神の三人の神がくじを引き、天・地上・地下のどれを担当するのかを決めるシーンから始まる。しかしメソポタミアでは登場人物の名前はそのものの運命を定めるものであるため天を意味する「アン」の名を持つアン神は当然天を、「大気」(lil)の「王」(en)であるエンリル神は天と地の間を担当、エンキは地下を担当し、どんでん返しは起こるはずもない。

この作品はメソポタミアの人々にとって当然として受け入れられてきたことの理由を改めて解説していることが多い。この箇所に関してもこの本で解説されるまでもなくアン神は天の支配者だしエンキ神は地の支配者であるのだが、この作者は世界の成り立ちから全て理由付けをして解説しようとしたようでこうした解説がなされている。

しかしこの作品が真に力を入れたのは「人類誕生」と「人類の死」に関する部分であり、その他の部分はあくまで解釈の一つとして捉えるべきものである。

物語は次に早速主題の一つである人類の誕生に移る。物語はアヌンナキと呼ばれる上位の神々下層階級の神々であるイギギと呼ばれた神達との対立から始まる。アン神などを含むアヌンナキは自身の生活に必要な食糧など消費物資などを得るために下層階級の神々であるイギギ達(この人々も紛れもなく神である)に労働を強いていた

しかしイギギ達は広い農耕地を長きにわたって運営し続けた結果疲れ果て、とうとうストライキをするまでに至った。彼らは農具まで壊して自身をアヌンナキと同じ扱いをすることまで要求したため、神々の世界は飢饉と貧困の危機に見舞われパニックに陥った

そんなときに解決策を編み出したのがもっとも賢い神エンキ/エアであるエンキ神はイギギ達の代わりに労働力となる存在、『人間』を作ろうと考えた

しかしこの作品における人間の作り方には少々癖がある。エンキ神の建てた計画では二級の地位の神ウェー(Wê)を一人殺し、その血を混ぜた土を人間の素材とした。人間が死んだあと土になることはメソポタミアでも知られており、人間が粘土や土により作られたというのはよく見られる考え方であるが、ここでは何故か一柱、神が犠牲になっている。

本来他の神話でも見られるようにエンキ神一人の力でも人間の創造はできるとすることも可能であったはずだ。それどころか、エンキ神が持つと考えられていた創造の力を考慮すれば一人で人間を創ったとする方が自然である。では何故Wê神は犠牲になったのだろうか。読み進めるとどうやら『人間の死』の理由付けに必要であったようだ。更には後述するがウェー神はこの作品のために作られた架空の神であることも分かっており、作者の工夫が読み取れる箇所である。

エンキ神の人間製造計画は熱狂的な支持を得て実行に移された。素材である血を混ぜた土がエンキ神によって作られた後は、四大神の一角、母神であるベーリト・イリ―神の多大な協力のもと人型の成型された。この土人形というべきような存在はルッルー(lullû)と呼ばれ、人間の種となった。(ボテロ 165p)。

ベーリト・イリ―神はかなり古くに崇拝された神で古い時代にはエンリル神やアン神と並ぶほどの神であった。後の時代に女神の代表として扱われるイシュタル神があのような性格だったので、真っ当な母神としての役割ではベーリト・イリ―神に軍配が上がる

実際に後にベーリト・イリ―神はエンリル神の妻として扱われるようになりニンリル神という名で呼ばれるようになるが、イシュタル神は主神の妻として扱われることはなく愛人として扱われた。

ということでわざわざここでベーリト・イリ―神が登場したのは人類の誕生に母性が必要であると考えられた事の証左となる。と思われる。この工程の後には原型と同じ素材のエンキ神の粘土の型枠の中に置くことで人形が複製される事となる。この複製にはベーリト・イリ―神は関わっておらず、であれば必要とされたのはベーリト・イリ―神の持っていた特別な技術ではないということになる。彼女は魂的な何かや造形に関わる目的でルッルー製造に関与したものだと思われる。

そして複製された人間の原型は14個に及び、同数の14人の位の低い女神が各々一人ずつ人間を身籠った。実に太陰暦にして十カ月(要は295日)を経て、始まりの男が7人と女が7人すっぱり誕生した。

実はこの際関わった14人の女神が行った出産の儀式が今行われている出産の儀式の原型なのだ!!といったテキストらしきものあるのだが破損しているうえにメソポタミアの出産儀礼はよく分かっていないため我々はその感動を共有することができない。

そして以上が物語の序盤のテーマである人間誕生秘話である。メソポタミア神話の人間誕生は大方、最高神(若しくはそれに近しいレベル)の男神が一人で土から産み出すパターンと、低位の母神が最初の人間を身籠るパターンに二分されるが、このテキストではなんと両方採用されている。当時の人々がどう思ったか分からないが私たちにとってはメソポタミア神話の考えを学ぶうえで非常に取っつきやすい形となっている。

また同時に方法だけでなく「なぜ人が作られたのか」という点にも十分解説がなされており、「神中心主義」の解説にも持ってこいである。

この後人間達は交配を繰り返し増えていき現実の彼らのような日々をに送る。現実同様人間はどれだけ大変であろうと生きる意味である神への奉納をやめることはなかった。

これ以降はなぜ神に作られ働く奴隷であるはずの人類が神に尽くそうとも様々な苦難に見舞われるのかという疑問の解説が物語に沿って行われる(ボテロ 165p)。主人公であるアトラ・ハーシスが登場するのはこの人間が繁栄する箇所である。よくこの本の紹介をするときにはこれ以前の部分が省かれて紹介されがちである。主人公が活躍する場面なのだから仕方ないといえば仕方ないのだが。更にはこの本が紹介されるときは大抵洪水物語とセットで扱われてしまうため猶更前半部分など全く扱われない事が多い。

しかし私の意見だが、この物語の洪水物語は当然「ノアの箱舟」の物語との類似点にばかり注目され、「神の怒りによって人類が滅ぼされんとする」点や、「箱舟に乗って一家族だけ助かる」点に目が行きがちだが、話の成り行きは全く異なっているメソポタミア神話の方が圧倒的に理不尽なのである。それは人々に与えんとするメッセージの違いであり、「ノアの箱舟」が信心深いものを称賛する意図が少なからず含まれているのに対し、『最高賢者叙事詩』は理不尽の説明に特化している。その点に注目してみると楽しいかもしれない。

最初に言っておくとこの物語で洪水が起こされる理由は増えすぎた人間がうるさかったからであるそんな無計画にペット買う人みたいな…

まずメソポタミアの人々はこの物語に限らず、古の人々は非常に長命だったと確かに考えていた。正式な記録である『シュメール王朝表』古い王は何万年も生きたのだと当然のように記録されている。

それを踏まえこの物語の作者は「昔の人間が長命であった理由」と「今の人間の寿命が短い理由」を説明しなければならなかった。そこで活かされるのがオリジナルキャラであるウェー神の存在である。

この物語では人類の原料の一部には不死の存在である神、すなわちウェー神の血が含まれている。そのため人類の寿命は非常に長く死ぬことがなかったのだ。

当時の彼らの言語(アッカド語)では人間はアウィール(awîlu)といい神を意味する(ilu)とwêを合わせると人間を意味する単語になったり、幽霊を意味するエツェンム([w]etemmu)がwêと精神を意味するtêmuを合わせたような単語であったりと(ボテロ 164p)、偶然ではなく語義的な立場に立って人類誕生を解き明かしている。前述の通り、メソポタミアでは名は運命を定めるものであり、これらは洒落でもなく見事な論理の組み立てだったといえるだろう。

事実人間(awîlu)はウェー神を原料に神であるベーリト・イリ―神が作ったものであるし、エツィンムもウェー神を原料としたものに精神だけを加えたものである。どうとでもできるといえばできることだが、初見の私は割と感心した。ちなみにエンキ神の計画で母神ニントゥがウェー神を殺し素材を作ったとする書版もあるが何故そのような改変がなされたかは不明である。

そして死ぬことのなかった人々は当然人口が減ることがないため驚くほどの勢いで増えていく、しかし増えた人々は彼らの役割を果たすべく手を休めず働き続けたため、騒音が鳴り止まず神々の王エンリルが眠れなくなってしまった。他の神は眠れたのか、だとかエンリル神は未来の事も全て分かるはずだ、だとか様々な疑問が浮上するがともかく彼は憤慨した。もちろん働いてくれている人々に対してである

彼は人類の数を大幅に減らすべく大量に殺戮することに決めた。非常に理不尽である。エンリル神は初めから人類を全てさらってしまうような洪水を計画していたわけではなく、最初に疫病を送り込んだとされている。

しかしエンキ神は困った。自身の肝いりの人類を働かせる計画がここで潰えるとまたもや神々は労働力を失い、元の木阿弥になってしまう。そのため洪水物語のパターンと同様にエンキ神は解決策を人類に齎すことにしたのだ。

授けられたのは疫病の被害にあっているシュルッパクの王であったアトラ・ハーシスである。彼はエンキ神に知恵を借りようと祈りを捧げていたようで、それが実を結びエンキ神から解決策を授かることとなる。エンキ神の人選はアトラ・ハーシスという名前が『最も賢い者』を意味することから単純に知性が選考基準であったと作者は主張したいようだ。

エア神が授けた疫病の解決方法は疫病にまつわる神であるナムタルを祀る事であり、実際にアトラ・ハーシスは教わった祓魔儀礼によって問題の解決に成功する。『洪水物語』のテンプレートをそのまま疫病に置き換えただけかと思いきや、相違点として人類はそれほど大打撃は受けていない。ある程度疫病の被害は出たものの生き残ったのがアトラ・ハーシス一家だけなどということはなかった。

しかし人類が減らなかったのだから当然エンリル神は次の手を打つことになる。エンリル神は人類に干ばつと飢饉を送り込んだ。しかしアトラ・ハーシスはまたエンキ神に祈りを捧げ、天候を司る神アダドに取りいる方法を教わった。またも干ばつと飢饉は解決し、人類は存続した。

しかし根本的な解決はなされず人口は増加の一途を辿り、怒髪天を衝くエンリル神はとうとう大洪水を起こす決心を立てた。「洪水物語」の始まりである。

後の展開はこの大洪水の情報を知ったエンキ神が水没しない船にアトラハーシスとその家族、それと動物の番いを乗せ、人類並びに動物の滅亡を防いだ。

がしかし、他の洪水物語とは異なりここで話を終えてしまっては物語は解決しない。人類が増えてしまっては堂々巡りだと考えたエンキ神は人間の寿命を短く設定し直し(人類の寿命が短いことの理由である)、一部の女性を不妊にし(男性側が原因のケースは追及されなかったというより知られてなかった)、幼児期に死ぬ子供を出現させた。

これらによって人類に訪れる苦難の数々が明朗に説明され、テキストは完結した。総じていえばこのテキストの作者は人類が死ぬ理由は増えすぎるとうるさいからであると考え、「神中心主義」の「神の為に、神によって創られた人類が死ぬ」という矛盾を解決したのだと思われる。

与えた影響

この物語の「人類誕生」にまつわる部分と、「洪水物語」にまつわる部分はそれぞれ別の大著に影響を与えている。人類誕生にまつわる部分は『創成叙事詩』に、「洪水物語」部分はノアの箱舟に共通する部分が見られる。

まず『創成叙事詩』に与えた影響について説明する。

この人類の苦難を明瞭に説明した物語構造は非常に多くの人々の心にハマったらしく『創成叙事詩』に限らず多くの物語で同様の論理が展開された。

詳しくは『創成叙事詩』の項にあるが、『創世叙事詩』はマルドゥク神のためのテキストといっても過言でもない。そのためエンキ神ではなく彼らから知恵を借りたマルドゥク神が人類を創造しており、語義的に綺麗なウェーの代わりに怪物性が強調された反乱者キングから人間を創っている。語義的な解説より、マルドゥク神の神としての力を強調したかったのだろう。

「洪水物語」としての影響も非常に大きい。この作品以前にも洪水というテーマが含まれた作品はいくつかあったが、神が人類を絶滅させようという明確な意思をもって大洪水を引き起こしたという作品はこの作品以前のものは見つかっておらず、明らかに旧約聖書の「洪水物語」の源流である作品であることには間違いない

『ギルガメシュ叙事詩』への影響についてだが、かなり異なる考えがされているところも多く『最高賢者叙事詩』以前の『エリドゥ創世記』の影響であるとするのも自然である。『最高賢者叙事詩』は『ギルガメシュ叙事詩』よりおそらく前の作品であるが、発掘・翻訳は『ギルガメシュ叙事詩』がメソポタミアの「洪水物語」で最も早い。

ジウスドラやアトラ・ハーシスは不死性を後から獲得したという点でメソポタミアを離れた研究でもときおり注目を浴びるという記述を見かけたが不死性の研究をお目にかかったことがないため、いずれ機会があれば記事を書いてみたいものである。

参考文献

ボテロ・ジャン、松島英子訳『最古の宗教ー古代メソポタミア』(りぶらりあ選書)法政大学出版局、2001

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