映画、観て参った。これから先には多分にネタバレ要素を含んでいますので、ご注意頂ければと思います。というより、感想を書き連ねていきますゆえ、観終わっていない方にとってはなんのことやらだと思われます。
私は何の因果かちょうど原作ゲーム『Fate / Grand Order』(以下、FGO)をバビロニア編、本映画直前まで進めており、映画を観るタイミングとしてはよかったのではないかと思われる。もちろんクリア後の方々も楽しめる事を前提に作られているであろうが、少なくともある程度までFGOをプレイしたプレイヤーにとっては理解し難い要素はなかったと感じ、非常に見易かった。
初見の人物からして物語の内容に驚きがあったかというと、正直ロマニ先生関連のフラグは乱立していてその正体に感情を揺さぶられはしなかった。であるが、終盤は涙を誘われる事が多かったと記憶している。然るに、私はゲーティアに同情していたのかもしれない。考えてみれば自明の理であり、死を拒み永遠を望むゲーティアと、全能を得ながら人としての終わりを望むソロモンとでは共感できるのはゲーティアの方であろう。
そもそも最初の問いかけからしてゲーティアは我々の側に立っている。マシュに対して「最初から終焉を持つ存在として作られたのであれば怒る権利がある」という主張はそのまま作られた存在である彼自身にも適用できるし、更にはミトコンドリアのいたずらにせよ神の御業にせよ我々人類にもいえることである。
死と生に理由を求める物語は神話の花形であり、多々繰り返されてきたものである。日本では神話のみならず能でも頻繁に扱われたし最近でもJRPGで繰り返されたテーマであるといえるだろう。今も昔も物語中の不老不死には何らかの犠牲が伴いそれは叶わない。ゲーティアの場合は犠牲となるのは人類史であったのだし『永遠』という、人々にとっての禁断の果実を捨てる理由としてはその犠牲は十分だろう。
さてソロモンとゲーティアに一通り触れたところでもう一人異彩を放っている人物がいた。ギルガメシュである。
こいつ何しとるん?
ボーっと突っ立っていたかと思うと最後に分かったようなセリフを言い残し消えていった。同じくメソポタミア代表であるエルキドゥは活躍していたし、イシュタル神も一応戦闘描写が与えられていたというのに悲しい限りである。
これからギルガメシュ擁護に入るが、これには物語の中の人物と現実の人物の対比という学術的には何の価値もない領域に入るため参考文献も用意していないし、聞き流しする程度にしていただければ幸いである。史実の話と物語の中の話を交えてしまうのは気持ち悪く感じるかもしれないがFateシリーズの特性上仕方ない。
さて、先ほど人類の死生観については神話の花形であるという話をしたが、ギルガメシュ王こそがその答えを人類に委ねたものの第一人者といえるだろう(もちろんその作者が、が頭にはついてまわるが、このページでは作中の人物が実在するものとして省略させてもらう)。
彼は生前、聖なる林を伐採するという行いをしたがために作中では全ての言いつけを守らないトリックスターとして描かれ、切るなと言われた木は切るし、不老不死に意味はないといわれても不老不死を志す。結果はトリックスターとして定番のもので、人々に発展を齎すが自分の望みは叶わない。彼の場合は若返りの草が蛇に食べられてしまい、不死を得ることはできなかった。
ギルガメシュのいたメソポタミアでは刹那主義や快楽主義はある程度受け入れられていて、ギルガメシュにアドバイスをくれるシドゥリも人は自己満足のために生きるのだという旨の発言をしている。このアドバイスをくれるシドゥリは神としての扱いを受ける人物であったため当時の人々にとってもこの主張は良しとされていたのだろう。
ギルガメシュは一度はこのアドバイスを無視するものの、最終的には人としての生を全うするのだし、このアドバイスは彼自身に受け入れられたのだろう。
さて、史実のソロモン王は恐らくギルガメシュ叙事詩を読んだことがあった。そもそもヘブライ語聖書はイスラエル周辺の出来事を数百年経ってから描いたものであり、その歴史的観点から真偽は問われて然るべきものであるが、そもそもユダヤ宗教発展の一助としてイスラエル王国の宗教的堕落があったことには間違いない。つまりイスラエルは独自の宗教、土地神を持っておきながらメソポタミアなど大国の宗教に傾倒していたということだ。
これは少なくとも真実と思われており、イスラエルの偉大な預言者達が新たな宗教を立ち上げることに成功した理由には「王が我らの神を信じないから国が滅びる」という預言をし、それが当たったからというのも含まれていると考えられている。ソロモン王についての記述は少ないが、彼の直ぐ後の時代の王がメソポタミア宗教に傾倒していたのであれば、最も分布した物語の一つである『ギルガメシュ叙事詩』は既に伝わっているはずだ。
もしかしたらイスラエルの預言者達は異国の神々に傾倒する王達を揶揄する意味を込めて「悪魔を召喚する力を持つ存在」として描いたのかもしれない(当時からそうであったかは確認していないが、ソロモン72柱には実際にメソポタミアの神がモデルとなったものもある)。
『ギルガメシュ叙事詩』は数多の物語に採用されたりしつつ西アジアに広く流布し、前300年ほどまでは神話の域を越え、いわゆる読み物語の一つとして読み継がれていたと考えられている。ギルガメシュ叙事詩の標準版が成立したのは前12世紀頃だったためソロモン王の時代には読まれていても一切矛盾はない。
そうするとヘブライ語聖書作中のソロモン王はまさしくギルガメシュ叙事詩の物語にそのまま付き従った人物といえるのかもしれない。ロマニ先生がなぜ人として生きるという願いを得たのか、もしかしたらギルガメシュの物語も関係しているのかもね、という程度の話ではあるが。ちなみに『ギルガメシュ叙事詩』以前にも人間が死ぬ理由を描いた物語はメソポタミアに多数存在する。しかしそれを人間の意思と紐づけたものは『ギルガメシュ叙事詩』が最初だろう。
ロマニ先生は生前ギルガメシュの出した現世利益を追求する快楽主義という結論に触れたはずであり、それを踏まえて永遠を手放したはずなのである。思えば本映画で召喚された英霊達にはその時代場所毎の『死生観』を持っていただろうが、彼らの逸話時代がその時代の生死を司ったものであるという人物はギルガメシュを除いて他にはいない。
多くの英霊はサーヴァントとして召喚されると同時に今作のテーマという「死と永遠」という分立構造で死の側に立って争う。しかしギルガメシュはその英霊としての在り方そのものに死が含まれており、だからこそこの争いに「参加する権利がなかった」のかもしれない。
ギルガメシュは不死を目指した旅から帰った後は「全てを見たもの」と形容される。メソポタミアの誉め言葉は真に受けちゃだめなので、Fateにおけるギルガメシュの全てを見通す力、のようなものは当時の人々も想定していなかった。しかし、少なくともギルガメシュ叙事詩の成立において人類は「神ではないものの、死の真実に辿り着いたもの」の存在を認めた。その真実が何であったのかは作中には記されない。しかし神が主役であった古代の世界で、それに「到達したとされた」という功績で英霊となったギルガメシュは恐らく英霊としての力で「死とは何か、永遠とは何か」を知っていた可能性がある。
それを知っていたのであればギルガメシュはこの争いに加わることができない。人類が自らの危機を自らの力で超えるべきなのであれば突然出てきたギルガメシュが「死とは何か」を語りだしてしまえば少なくとも作中の藤丸君の成長はなかったはずだ。今作、藤丸君は一つの死の真実に辿り着いた。「それ」はギルガメシュの持つ「それ」ほど確固たる、完璧なものではなかったかもしれない。しかし、人類史の進歩には間違いがない。聖域を踏み荒らし人類の発展に寄与したギルガメシュは世界の終焉を目の前にしてもその進歩を選んだのかもしれない。
ほらね?ギルガメシュかっこいいでしょ?

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